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わがまま
過去に戻って〜〜〜
を執筆しているけれど、ひとつどうしても書きたい短編ができた。
医療物でブラックジャックの二次小説です。
過去に戻って……を書くにあたり膨大な医療関係の物に目を通しているのだけれど、医療の難しさ、やるせなさを強く感じてしまう。そういうやるせなさの『ヨドミ』のようなモノが自分に溜まっていく。
しかし過去に戻って……はあくまでラブコメとのミックスなので、書ききれない部分があって、けれどそこを吐き出さないと先に進めない。
過去ツンを完結させるのが最優先で、待って下さっている読者さんに申し訳なく思います。完全に私の我がままですが、これだけは書きます。
ドクターキリコを主役にした、ブラックジャックの出てこない医療モノ短編、2万文字程度の作品です。
今書いている、恋番外編と桜公園編の区切りがいいところで発表します。うん、あと前から言ってますが新江崎√のエロ……というか後日談の追加。
そういった事を考えているこの頃なのです。
おっぱいおっぱい
【習作】 恋番外編 後半
【習作】 恋番外編 後半
◇
雨にうたれ、髪の先から足元までびしょ濡れになっている少年――神無月恋君――をみづきはようやく準備室の中へと案内する事ができた。
何度『家まで送るわよ?』と言っても少年は無言で首を横にふるばかりで手を焼いた。が、『明日、映画に行くって言ってたでしょう。風邪にでもなったら大変よ?』 という言葉に、ピクリッと華奢な体を震わせる反応を見せた。
それを切欠に、どうにか準備室へと少年――恋君――を案内した。ここには簡素で狭いながらも一人用のシャワーがあり、洗濯機と乾燥機も設備されているからだ。といっても、緊急で泊り込むみづき専用の設備であり、実用一点張りの味気ないシャワー室だけれど。
「それじゃ、この扉の向こうが脱衣所とシャワーね。とりあえず泥を落として体を温めてきなさい。私はその間、体操着を洗濯しておくから」
「……あ、でも」
恋君は朝に見かけた時とはまるっきり様子が違い、どことなく沈んだ感じに見えた。雨に濡れた茶色の髪は額や頬に張り付き、体操服は水に透けて細いカラダのラインを浮き立たせている。可愛らしい顔立ち、ぱっちりした瞳は涙でうるんで、元気の欠片も見当たらない。
「いいから。ほら、遠慮しないで」
「……うん」
ゆっくりと小さな頭を下げて恋君が脱衣所へと入る。その後姿を見送った後、みづきは準備室の奥にある箪笥の引き出しを開けた。
「うん、これでいいかしら?」
流石に体操服が乾くまでの間、バスタオル一枚で過ごさせる訳にもいかない。あいにく少年用の下着はない――みづきの物はあるがそれは嫌だろう――ので、きつめのスパッツとハーフパンツで我慢してもらう事にする。そして上に着るものは……。
「ちょっとの間だし、仕方ないわよね」
フリルのついた赤と黒のゴシック風キャミソールを用意する。小さな子悪魔風の羽根まで着いており、おもいっきり可愛らしい物。
みづきはゴスロリを――他人に着せて鑑賞する事を――好んでおり、沙織お嬢様はその影響をかなり受けていた。けれど、どうも最近ノリが悪く、このキャミソールも断られたままで袖を通された事のない新品だ。
まあ半分は冗談だし、恋君がどうしても嫌がった場合は味気のないテニスウェアで妥協しようと考えて、みづきは着替えを持ったまま、脱衣所の前に立つ。
「それじゃ、着替えを置いておくわ。あと、体操着は洗濯するわね」
「あ、ありがとうございます」
シャワー室の中から響く少し元気になったような恋君の声を聞きつつ、みづきは籠に入った雨に濡れたままの体操着を持ち去った。
まるで可愛い弟か妹の世話をしている気になり、みづきもちょっと楽しい。部屋の外の洗濯機へ物を放り込んだあと、鼻歌を歌いながらそのスイッチを押す。
(何があったのかしら?)
朝に見た時は天真爛漫、元気に満ち溢れている様子だった恋君。アキラ君の隣でニコニコと微笑んでいた顔の可愛らしさはみづきに強い印象を残していた。
そして小麦色の肌とひきしまった手足、水で体操着が透けて見えた上半身にも無駄な贅肉などない、健康そのものといった肉体のライン。
泣きそうなほど落ち込んだ様子とギャップが、みづきを心配させた。ほとんど初対面だというのに、恋君にはどこかほっとけない魅力がある。そういう部分ではアキラ君と似ているのかもしれない……とみづきは思う。
「うん」
準備室の中へリラックス効果のあるアロマを焚く。森林浴をしているような植物の優しい香りに、ほんの少しだけ官能的で甘く、けれどスパイシーな芳香。みづきはこの香を焚きつつ、ここで自分自身にオイルマッサージをする事もあった。
洗濯機を作動させてから、そういったこまごました事をしていると……。
「あ、あの……。これって、変じゃないですか?」
「え?」
背後からおずおずと響いた声にみづきは振り返り、そして言葉を失った。
湯上りでほんのりピンクに染まった頬、髪は少し濡れてストレートのショートに見える。健康的なふとももはみづきのスパッツに包まれて、なによりも……。
「ううんっ、全く変じゃないわ。すっごく似合ってる。……でも嫌だよね、ごめんなさい」
「い、いえっ。その……だってシャワーまで使わせてもらって。そんな贅沢言えないです。ご、ごめんなさいっ。ボク、これで平気です」
ほとんどビスチェと呼べるような赤と黒のキャミソールは、恋君の褐色の肌に素晴らしく似合っている。恥ずかしそうにもじもじと腕を交差させている様子さえ、まるでそういうポーズのよう。
「ううん。謝るのは私のほうよ。恋君がすっごく可愛いから悪戯しちゃったの。ほんとにごめんなさい。遠慮しないでこっちに着替えてもいいのよ」
シャワーを借りた事をそこまで気にする少年の礼儀正しさに、みづきは申し訳なくなり、シンプルなテニスウェアを見せる。内心はこの可愛いすぎる姿をもっと見たい……できれば化粧なんかまでしたいっ、と強く願うが表情には出さない。
「あのっ……本当に変じゃないですか?」
「え?」
もじもじと恥ずかしそうにうつむきながらも、恋君はみづきへ再度問いかける。その口調は、この可愛い洋服を嫌がっている……というより、うれしいけれど照れているといった風に聞えた。
「本当に似合ってるわよ。こっちに来てみて」
みづきはもしかすると恋君も自分と同じ趣味――可愛い衣装が密かに好き――なのでは? と思い、少年の手をつかみ大きな姿見の鏡へ案内する。
鏡に映った恋君の全身。黒と赤の小悪魔風キャミソールが日焼けしていない真っ白な肌にフィットし、けれど肩からは褐色になっている肌が逆に艶かしい。可愛らしい顔立ちと中性的な雰囲気なのに、どこかエロティックな服装。
「あっ」
「ね? すっごく似合ってるでしょ」
みづきの胸くらいの身長しかない少年の肩を背後から軽くつかむ。うつむきがちな視線、曲がった背筋を伸ばさせて鏡をまっすぐに見つめさせた。
恋の茶色の視線が鏡のそれと見詰め合う。小柄な体型、ほっそりして引き締まった肢体がゴシックロリータの怪しい色気を醸し出している。
「あうっ、恥ずかしい……けど、うん。あんまり、変じゃない……かも」
「だから変じゃないわよ。すっごく可愛い。ね、ちょっと待ってて」
最近、お嬢様がゴスロリ風の洋服に袖をあまり通さないようになっていたため、溜まっていたみづきの欲求があふれ出す。それに恋君の容姿は中性的かつ可愛らしい天使のようで、実は男の子なのだという意識もあまり感じない。
なかば浮かれながら、みづきは箪笥の奥から銀髪のウィッグ――サラサラのストレートで数回お嬢様が着用したものだ――を取り出し、恋君の小さな頭へとかぶせた。
「うわ、え、ちょっと」
「だめ、じっとしてて」
大きな瞳で驚いている恋君。けれど彼も鏡にうつった自分の姿を見ると、そのまま絶句して固まっていた。それほど似合っていたから。
褐色の顔に銀色の髪がサラサラと揺れ、きれいな鎖骨の窪みへと流れている。カラダにぴっちりとフィットした黒い服は妖艶で思わず息を飲む。
「ね、いいでしょ? これでメイクなんかしたら、絶対友達も恋君だってわかんないわよ」
「――っ、ほ、ほんとに!? ボクだってわかんないかな」
なにげないみづきの言葉に、意外にも恋君は食いつきをみせた。みづきとしては、内心悪ふざけもこれで終わりにして、二人で紅茶でも飲もう……と思っていただけに驚きかつ嬉しかった。もしかしたら、この少年は本当にこういう格好が好きな同好の士なのかも、と。
「ねえ、恋君がもしも興味があればだけど……ちょっとメイクとかしてみる?」
みづきの囁き声の問い。それに少年は一瞬、迷った様子を見せたけれど……こくんっと顔を真っ赤に染めながら頷いた。
◆
大きな姿見の前へ椅子ごと移動した恋は、ドキドキとした心臓の鼓動を意識しながら、鏡にうつる自分自身の姿を何度も見てしまう。
「これが……ボク」
「ごめんね、ちょっと上を向いて」
「あ、はい」
三十分ほど前からここに座ったまま、恋はみづきの指示に従い右を見たり左を見たり、何度も首を動かしていた。今までした事のない本格的なメイク――ごく軽い化粧なら自分で密かに試した事はあった――に少しの疲れを感じるけれど、みるみる変わっている鏡の中の自分に驚いてしまい気にもならない。
唇は銀髪に合わせたのか、暗めのリップ。目元は自分では絶対にできないほど大胆かつ妖艶に、黒いアイシャドウで飾られている。まさに人形のようで、恋の目から見ても小悪魔的な淫靡さがあった。
「すごい……」
「んー、ちょっと気に入らないわ」
あまりに普段とかけ離れた自分の姿に恋は驚きしかないが、みづきは不満そうに唇を尖らせている。何種類もの筆を操り、化粧用パレットを持ったまま恋をじっと覗き込む。
「あの……、やっぱりボクが可愛くないから……、ですか?」
「ん、違う。違うわよ。恋君はすっごくいいの! でもね、うーん。何かが足りないのよね」
腕を組みながらブツブツとつぶやいているみづき。恋は鏡の中の自分を何度も見ながら、おとなしく座っている。
「そうだ。恋君、ちょっとエステしてみない?」
「え?」
みづきはようやく答えが見つかった……とでも言うように、気合のこもった様子で言う。ジャケットはすでに脱いでいたが、恋の返事を待たずに白シャツの袖を腕まくりしている。ウェーブした髪さえも、邪魔にならないようにゴムでポニーテールへと結ぶ。
「エステ、ですか?」
「うん。恋君の肌ってすっごくきめ細かくて素敵なんだけど、どうしても日焼けしてない部分との色の差があるの。だから、ボディアートで誤魔化す……といったら変だけど、そこに視線を集めようと思うの」
意味のわからない単語に戸惑う恋。けれどみづきは素早く棚へと移動して、様々なビンを取り出し始めていた。色とりどりの美しいビンの数々がテーブルへと並べられていく。
「あ、あのっボディアートって」
「ごめんね、説明するわね。肌にキラキラしたストーンとか張ったり、植物性の顔料で花なんか描くの。恋君は首周りとか足がすっごく綺麗でしょ? そういう所に書いたら、とっても素敵なのよ」
◇
雨にうたれ、髪の先から足元までびしょ濡れになっている少年――神無月恋君――をみづきはようやく準備室の中へと案内する事ができた。
何度『家まで送るわよ?』と言っても少年は無言で首を横にふるばかりで手を焼いた。が、『明日、映画に行くって言ってたでしょう。風邪にでもなったら大変よ?』 という言葉に、ピクリッと華奢な体を震わせる反応を見せた。
それを切欠に、どうにか準備室へと少年――恋君――を案内した。ここには簡素で狭いながらも一人用のシャワーがあり、洗濯機と乾燥機も設備されているからだ。といっても、緊急で泊り込むみづき専用の設備であり、実用一点張りの味気ないシャワー室だけれど。
「それじゃ、この扉の向こうが脱衣所とシャワーね。とりあえず泥を落として体を温めてきなさい。私はその間、体操着を洗濯しておくから」
「……あ、でも」
恋君は朝に見かけた時とはまるっきり様子が違い、どことなく沈んだ感じに見えた。雨に濡れた茶色の髪は額や頬に張り付き、体操服は水に透けて細いカラダのラインを浮き立たせている。可愛らしい顔立ち、ぱっちりした瞳は涙でうるんで、元気の欠片も見当たらない。
「いいから。ほら、遠慮しないで」
「……うん」
ゆっくりと小さな頭を下げて恋君が脱衣所へと入る。その後姿を見送った後、みづきは準備室の奥にある箪笥の引き出しを開けた。
「うん、これでいいかしら?」
流石に体操服が乾くまでの間、バスタオル一枚で過ごさせる訳にもいかない。あいにく少年用の下着はない――みづきの物はあるがそれは嫌だろう――ので、きつめのスパッツとハーフパンツで我慢してもらう事にする。そして上に着るものは……。
「ちょっとの間だし、仕方ないわよね」
フリルのついた赤と黒のゴシック風キャミソールを用意する。小さな子悪魔風の羽根まで着いており、おもいっきり可愛らしい物。
みづきはゴスロリを――他人に着せて鑑賞する事を――好んでおり、沙織お嬢様はその影響をかなり受けていた。けれど、どうも最近ノリが悪く、このキャミソールも断られたままで袖を通された事のない新品だ。
まあ半分は冗談だし、恋君がどうしても嫌がった場合は味気のないテニスウェアで妥協しようと考えて、みづきは着替えを持ったまま、脱衣所の前に立つ。
「それじゃ、着替えを置いておくわ。あと、体操着は洗濯するわね」
「あ、ありがとうございます」
シャワー室の中から響く少し元気になったような恋君の声を聞きつつ、みづきは籠に入った雨に濡れたままの体操着を持ち去った。
まるで可愛い弟か妹の世話をしている気になり、みづきもちょっと楽しい。部屋の外の洗濯機へ物を放り込んだあと、鼻歌を歌いながらそのスイッチを押す。
(何があったのかしら?)
朝に見た時は天真爛漫、元気に満ち溢れている様子だった恋君。アキラ君の隣でニコニコと微笑んでいた顔の可愛らしさはみづきに強い印象を残していた。
そして小麦色の肌とひきしまった手足、水で体操着が透けて見えた上半身にも無駄な贅肉などない、健康そのものといった肉体のライン。
泣きそうなほど落ち込んだ様子とギャップが、みづきを心配させた。ほとんど初対面だというのに、恋君にはどこかほっとけない魅力がある。そういう部分ではアキラ君と似ているのかもしれない……とみづきは思う。
「うん」
準備室の中へリラックス効果のあるアロマを焚く。森林浴をしているような植物の優しい香りに、ほんの少しだけ官能的で甘く、けれどスパイシーな芳香。みづきはこの香を焚きつつ、ここで自分自身にオイルマッサージをする事もあった。
洗濯機を作動させてから、そういったこまごました事をしていると……。
「あ、あの……。これって、変じゃないですか?」
「え?」
背後からおずおずと響いた声にみづきは振り返り、そして言葉を失った。
湯上りでほんのりピンクに染まった頬、髪は少し濡れてストレートのショートに見える。健康的なふとももはみづきのスパッツに包まれて、なによりも……。
「ううんっ、全く変じゃないわ。すっごく似合ってる。……でも嫌だよね、ごめんなさい」
「い、いえっ。その……だってシャワーまで使わせてもらって。そんな贅沢言えないです。ご、ごめんなさいっ。ボク、これで平気です」
ほとんどビスチェと呼べるような赤と黒のキャミソールは、恋君の褐色の肌に素晴らしく似合っている。恥ずかしそうにもじもじと腕を交差させている様子さえ、まるでそういうポーズのよう。
「ううん。謝るのは私のほうよ。恋君がすっごく可愛いから悪戯しちゃったの。ほんとにごめんなさい。遠慮しないでこっちに着替えてもいいのよ」
シャワーを借りた事をそこまで気にする少年の礼儀正しさに、みづきは申し訳なくなり、シンプルなテニスウェアを見せる。内心はこの可愛いすぎる姿をもっと見たい……できれば化粧なんかまでしたいっ、と強く願うが表情には出さない。
「あのっ……本当に変じゃないですか?」
「え?」
もじもじと恥ずかしそうにうつむきながらも、恋君はみづきへ再度問いかける。その口調は、この可愛い洋服を嫌がっている……というより、うれしいけれど照れているといった風に聞えた。
「本当に似合ってるわよ。こっちに来てみて」
みづきはもしかすると恋君も自分と同じ趣味――可愛い衣装が密かに好き――なのでは? と思い、少年の手をつかみ大きな姿見の鏡へ案内する。
鏡に映った恋君の全身。黒と赤の小悪魔風キャミソールが日焼けしていない真っ白な肌にフィットし、けれど肩からは褐色になっている肌が逆に艶かしい。可愛らしい顔立ちと中性的な雰囲気なのに、どこかエロティックな服装。
「あっ」
「ね? すっごく似合ってるでしょ」
みづきの胸くらいの身長しかない少年の肩を背後から軽くつかむ。うつむきがちな視線、曲がった背筋を伸ばさせて鏡をまっすぐに見つめさせた。
恋の茶色の視線が鏡のそれと見詰め合う。小柄な体型、ほっそりして引き締まった肢体がゴシックロリータの怪しい色気を醸し出している。
「あうっ、恥ずかしい……けど、うん。あんまり、変じゃない……かも」
「だから変じゃないわよ。すっごく可愛い。ね、ちょっと待ってて」
最近、お嬢様がゴスロリ風の洋服に袖をあまり通さないようになっていたため、溜まっていたみづきの欲求があふれ出す。それに恋君の容姿は中性的かつ可愛らしい天使のようで、実は男の子なのだという意識もあまり感じない。
なかば浮かれながら、みづきは箪笥の奥から銀髪のウィッグ――サラサラのストレートで数回お嬢様が着用したものだ――を取り出し、恋君の小さな頭へとかぶせた。
「うわ、え、ちょっと」
「だめ、じっとしてて」
大きな瞳で驚いている恋君。けれど彼も鏡にうつった自分の姿を見ると、そのまま絶句して固まっていた。それほど似合っていたから。
褐色の顔に銀色の髪がサラサラと揺れ、きれいな鎖骨の窪みへと流れている。カラダにぴっちりとフィットした黒い服は妖艶で思わず息を飲む。
「ね、いいでしょ? これでメイクなんかしたら、絶対友達も恋君だってわかんないわよ」
「――っ、ほ、ほんとに!? ボクだってわかんないかな」
なにげないみづきの言葉に、意外にも恋君は食いつきをみせた。みづきとしては、内心悪ふざけもこれで終わりにして、二人で紅茶でも飲もう……と思っていただけに驚きかつ嬉しかった。もしかしたら、この少年は本当にこういう格好が好きな同好の士なのかも、と。
「ねえ、恋君がもしも興味があればだけど……ちょっとメイクとかしてみる?」
みづきの囁き声の問い。それに少年は一瞬、迷った様子を見せたけれど……こくんっと顔を真っ赤に染めながら頷いた。
◆
大きな姿見の前へ椅子ごと移動した恋は、ドキドキとした心臓の鼓動を意識しながら、鏡にうつる自分自身の姿を何度も見てしまう。
「これが……ボク」
「ごめんね、ちょっと上を向いて」
「あ、はい」
三十分ほど前からここに座ったまま、恋はみづきの指示に従い右を見たり左を見たり、何度も首を動かしていた。今までした事のない本格的なメイク――ごく軽い化粧なら自分で密かに試した事はあった――に少しの疲れを感じるけれど、みるみる変わっている鏡の中の自分に驚いてしまい気にもならない。
唇は銀髪に合わせたのか、暗めのリップ。目元は自分では絶対にできないほど大胆かつ妖艶に、黒いアイシャドウで飾られている。まさに人形のようで、恋の目から見ても小悪魔的な淫靡さがあった。
「すごい……」
「んー、ちょっと気に入らないわ」
あまりに普段とかけ離れた自分の姿に恋は驚きしかないが、みづきは不満そうに唇を尖らせている。何種類もの筆を操り、化粧用パレットを持ったまま恋をじっと覗き込む。
「あの……、やっぱりボクが可愛くないから……、ですか?」
「ん、違う。違うわよ。恋君はすっごくいいの! でもね、うーん。何かが足りないのよね」
腕を組みながらブツブツとつぶやいているみづき。恋は鏡の中の自分を何度も見ながら、おとなしく座っている。
「そうだ。恋君、ちょっとエステしてみない?」
「え?」
みづきはようやく答えが見つかった……とでも言うように、気合のこもった様子で言う。ジャケットはすでに脱いでいたが、恋の返事を待たずに白シャツの袖を腕まくりしている。ウェーブした髪さえも、邪魔にならないようにゴムでポニーテールへと結ぶ。
「エステ、ですか?」
「うん。恋君の肌ってすっごくきめ細かくて素敵なんだけど、どうしても日焼けしてない部分との色の差があるの。だから、ボディアートで誤魔化す……といったら変だけど、そこに視線を集めようと思うの」
意味のわからない単語に戸惑う恋。けれどみづきは素早く棚へと移動して、様々なビンを取り出し始めていた。色とりどりの美しいビンの数々がテーブルへと並べられていく。
「あ、あのっボディアートって」
「ごめんね、説明するわね。肌にキラキラしたストーンとか張ったり、植物性の顔料で花なんか描くの。恋君は首周りとか足がすっごく綺麗でしょ? そういう所に書いたら、とっても素敵なのよ」
【習作】 過去に戻って……番外 ※ 神無月恋 『アキラを待ちながら』 前編
【リハビリ作】 過去に戻って、、、番外
神無月恋 『アキラを待ちながら』 前編
◆
早朝4時の目覚め……新江崎家第二秘書として、水仙原みづきの朝は早い。それは彼女の従えるべき主人――沙織お嬢様――が夏休みに入っても変わる事はなかった。
沙織お嬢様が合気道の練習に備えて4時半に起床する前に、身だしなみを整えておかねばならないからだ。
今年で25歳、中学、高校、大学と続けてきたテニスの成果か、均整のとれたスタイルをダークグレーのスーツで包む。肩ほどの長さ、ゆるくウェーブした軽い赤毛の髪を丁寧にブラシでとかし、ごく軽く化粧を終える。
そうして、同じく幼少から学び続けてきた茶道で身につけた、優雅さの漂う動作でお嬢様の部屋の扉を開く。
時刻はきっちりと4時30分。この数年、一度もずれたことは無い。
「おはようございます、沙織お嬢様。こちらにジャスミンティーをご用意しております」
「ん……ありがとう、みづきさん」
寝起き直後の沙織お嬢様は普段のツンとした様子とは異なり、年齢相応の無防備さが見える。赤と白のギンガムチェックのパジャマにはいくつものシワがより、艶やかな黒髪も乱れていた。
あくびを押し殺し、眠そうな様子を必死に見せないように我慢している所も可愛い……と、みづきはいつも思う。この無防備な姿を見る為なら、毎朝4時に起きる事さえ構わないとも。
ベッドから部屋中央にあるチェアへゆっくりと腰掛け、寝起き直後のピンク色をした唇を白磁のティーカップへとつける沙織お嬢様。
その様子を見守りつつ、みづきはさりげなく口を開く。大切な主人をちょっとからかいたくて。
「そう言えば……。お嬢様、今日は待ちに待った金曜日ですね」
「――っっ! みづきさん、私っ、べ、別に待ちに待ってなんかっ」
みづきの予想通り、思いっきり動揺した様子で顔を赤らめるお嬢様。あわてて立ち上がろうとして、ガタンッ! とテーブル――イタリアの職人が作った高級品――が揺れた。
母親――新江崎家現当主――譲りのクールな美貌が、動揺の為か可愛らしく見える。
「そうですか? 夏休みに入って初めて何も予定の無い日ですので、さぞかし楽しみにされているだろう……と、思っていたのですが」
「えっ、あ! そ……そうね。その……うん、そう、今日は暇ですわ。ええ」
胸の奥からこみ上げそうになる笑いに堪えながら、何食わぬ顔でみづきはジャスミンティーのお替りを注ぐ。周囲へ立ち昇るえもいわれぬ花の香り。その芳香がしばしの沈黙を誘った。
未だに顔を赤らめたまま、気持ちを静めるようにくるくると長い黒髪を指先で弄っているお嬢様。その姿を横目で捉えつつ、再度みづきは爆弾を放り込む。
あくまでもさりげなく――これぞ秘書のたしなみ――だ。
「お嬢様、今日は図書館で過ごされるのですか?」
「――んっ!!! な、なんでっ!!」
軽くジャスミンティーに咽つつ、普段の様子からはありえないほど大声を上げるお嬢様。耳はおろか、ギンガムチェックのパジャマからみえる首筋まで赤く紅潮している。
その理由を百も承知しながら、みづきはあくまでも何気なく言葉を返した。
「いえ。最近、お嬢様はよく図書館へおいでですので。もし来られるのであれば、昼食の手配でも……、と」
「う……、わ、わからないわ。暇で仕方なく、そうよっ、退屈したら仕方なく行きます。あ、あとお昼はいらないわ。その……どこかで食べるから」
「はい、かしこまりました」
カチャリとカップを片付けながら、お嬢様に一礼をしてみづきは部屋を出る。いまにも笑みがこぼれそうになるのを必死で堪えつつ。
みづきの脳裏に浮かぶのは先週の金曜日、そう……お嬢様の1学期最後となる金曜日の事だ。
「ねえ姫……じゃなかった。新江崎さんってさ、夏休みは暇なの?」
「――っ! 全く……柊クンと一緒にしないで頂ける? 私、新江崎家の次期当主としてとーっても忙しいの。そうよ、今日だって、すっごく無理してるんだからね! 感謝しなさい!」
「うっ、ありがとう」
図書館と医療関係の本が収めてある小部屋を隔てる扉の前で、たまたま掃除をしていたみづきの耳に聞こえてきた声。それはまぎれもなく彼女の主人である新江崎沙織と友人? の柊アキラ君の声だった。
こういう盗み聞きは秘書としてあるまじき行為……とわかっているが、あまりにも楽しそうな内容につい、聞き耳を立ててしまう。
「その……それで何?」
「ん?」
「だから、私がもし、もしもよ! 仮に暇だったら何なの? さっさと言いなさいよっ」
再び響くお嬢様のツンケンとした不機嫌そうな声。けれど、みづきは知っていた。あの誕生日パーティーの夜から……『何か』お嬢様の態度が違うという事を。
柊君、みづきの目から見ても誠実そうで真面目な少年。しかしずば抜けてかっこいい訳でもなく、いつも眠そうにしている……という印象が強かった。だが、どうもお嬢様の態度がおかしい。
チラチラと横目で彼の唇を見たり、指先をみつめたりしている時があった。彼が何かを言うだけで、顔を赤らめる事もしばしば。
もしかしたらキスでも……と思ったが、それにしては少年の態度は平然としすぎており、どうも良くわからない。が、お嬢様が少年に好意を抱いているのは確実で、秘書としても、姉代わり保護者代わりの立場としても、みづきはこの会話を聞き逃す訳にはいかない。
「ん? 前も少し言ったけどさ、夏休みの間も毎週金曜に図書館を使わせて欲しいなぁって。その、新江崎さんの予定はどう?」
「っ!」
聞こえてきた内容に、思わずみづきの頬が笑みで緩む。
つい1週間ほど前になるが、沙織お嬢様が「夏休み期間中も、金曜日だけは絶対に予定をいれないように!」と言っていた事を思い出したから。
「ふ、ふーん。そんな事言ってたかしら? 柊クンの都合なんて興味ないし、全然覚えてなかったわ。それで?」
「え、何が?」
扉越しにさえ、お嬢様の声が嬉しそうにほんの少しうわずっているのがわかる。と言っても、ほんの僅かしかトーンが変わらない為、少年には相変わらず不機嫌そうに聞こえるだろうけれども。
「ねえ柊クン? つまり貴方は忙しい私に、どうしても金曜日に来て欲しいってお願いしてる訳よね。なら、何かお礼をしたいとか思わないのかしら?」
「姫が無理ならボク独りでも別に……」
「何かおっしゃいました?」
「う、ううん。別にっ」
この年頃の男の子というのは、やはり恋愛ごとに興味がないのだろう……と改めてみづきは思った。
お嬢様が毎週金曜日の放課後、彼が図書館を訪れる30分も前から鏡で何度も制服をチェックし、ニキビを必死にファンデーションとコンシーラーで隠しているなど、彼は想像した事もないはずだ。
「なら、お礼に昼ご飯を作ってくるよ。サンドウィッチとかでいい?」
「柊クンが作るの!?」
「うん、味はまぁまぁだと思うけど……嫌いなものってある?」
ほとんど不審者のように聞き耳を立てながら、みづきは興味津々で成り行きを見守った。(と、言っても見てはいないが)
彼女の主人である沙織お嬢様の数少ない欠点が、料理が不得意だという事だから。まあなにぶん、新江崎家のキッチンは広すぎ、また取り揃えてある調味料も多すぎる為に、初心者では料理がしにくい環境だという事もあるのだろう。
それに普段食べている料理は一流シェフの作るモノばかり。自然、比較する対象のハードルは高くなる。
という訳で、過去に何度か料理に挑戦したお嬢様は、あまり結果に納得出来なかったこともあり、今では調理器具を握る事もない。
「特に無いけど……」
「そっか。じゃあお礼の意味を込めて、丁寧に作ってくる。ありがとう、新江崎さん」
「っ! 期待なんてしないわよっ」
「あははっ、わかってるよ」
一通りの会話を聞き終えたみづきは、すばやく扉の前を離れた。それから何食わぬ顔で事務処理を始めたのだが……数分後、お手洗いに資料室から出てきた沙織お嬢様の顔を見て、笑いをこらえるのが大変だった。
なんとか平静を装おうとしているお嬢様――普段どおりにツンと背筋を伸ばし、優雅に足を出している――だったが、口元は幸せそうに微笑んでいたから。
――それがちょうど先週の事。図書館の司書として、新江崎家第二秘書として、そして単なる野次馬として、今日は絶対に図書館で一日中仕事をしよう……と、水仙原みづきは決意した。
◇
神無月恋は小学校2年の夏、あと数週間で夏休みが始まる……という、どこか浮ついた時期に京都から転校してきた。
小学校6年の今でこそ、恋は委員長として皆から頼られて人望もあり、明るく活発な超美少年? という評判を得ているが、転校当初はまったく違っていた。
関西から関東へ引っ越してきた場合――しかも閉鎖的なこの町で――最も標的になるのが言葉……いわゆる関西弁。
それに加えて、恋の目立ちすぎるほど可愛い顔――なんと言っても、60人という学年全員が今度の転校生は女子だと思っていたくらい――が、悪い意味で作用した。
同級生の中で、郡を抜いて華奢で小さな体格。肌は抜けるように真っ白で、瞳はパッチリとした二重。ぷっくりした唇は艶々と自然に輝き、子猫のような柔らかな髪は軽いくせっ毛で、ふんわりと耳を隠すくらいのショートボブ。
シンプルな黄色のTシャツ、半ズボンという格好でさえ、まるでTVの子役女優のよう。
「今度のよそ者はおかま」
「ハードゲイ」
「おとこおんな」
間が悪い事に、その当時にゲイを売り物にした芸人が流行しており、恋は格好の標的となった。友達と呼べる存在などまだ当然おらず、またイジメ――といってもからかいのようなレベルだったが――に加担していないクラスメート達は、目前に迫った夏休みが楽しみで、擁護する者など現れない。
「やめてよっ。ボクはゲイちゃう……違うもん。っっっ……」
「泣いた、よそ者が泣いたぞ。あははっ」
「違う、違うからっ……。ボク、ボク……」
家に帰っても厳しい祖父と無口な祖母がいるだけで、頼れる雰囲気はなく相談もしにくい。転校直後の恋は、昼休みや休み時間になると、独りでポツンと校舎外れのベンチに座るのが日課になった。
が、そうなると上級生や先生がやたらと声をかけてくるのだが、決まって……、
「えっ、君って男の子なの? うそっ、だってこんなに色も白いし……髪だって」
「やめて、男だもん。ボクは男……。いいから、かまわんとって!」
父や母、京都にいる友人が恋しくて、さびしくて仕方がなく、周囲からの好奇の視線が辛かった。関西弁をからかわれる事から、言葉を喋る事そのものが怖くなり先生にさえ相談できない。
また、恋が女の子と誤解されやすい要因の一つとしてあった髪型。それは恋の茶色でふんわりした髪質とあいまって、まさに少女のように見えた。似合いすぎた……と言ってもいい。
髪を他の男子くらいに短く切れ……と祖父などは言うが、恋にはどうしても切りたくない理由があった。何もかもが手詰まりで、小さな恋はただ苦しみ、遠くはなれた父母を慕って泣いてばかり。
――恋がアキラと出会い、会話をしたのはちょうどそんな時期。真っ赤な夕焼けが見える校舎の外れのベンチ、蒸し暑くけだるい時間だった。
「なあ、怪我でもしたの?」
「……」
恋は知る由もなかったけれど、その夜にアキラは母親と外食に行く約束をしており――結局、急患の為に行けなかったが――非常に機嫌が良かった。その為、普段は他人に興味の無い彼が、珍しく思いやりを発揮した瞬間だった。
「……怪我なんか」
「ふーん。なら、なんでうつむいてるの? どっか痛い? 保健室につれていこっか?」
「うるさい!」
互いにクラスメートだとは知らず、ただすれ違いの会話だけが続く。ここで幸運だったのは、桜――アキラの一学年下で妹同然の存在――が、その日は父親が工場から家へ戻ってくる日であったためにすでに帰宅しており、アキラには時間が有り余っていた事。
「だってさ、桜が『女の子には親切にするものよ』って、よく言ってるし」
「――っっ! ちゃうもん、ボク男だもん。もうやだ。こんな、こんなのっ、うううっっ」
「へ?」
恋は何気ないアキラの言葉をきっかけにして、こらえていた感情があふれ出し堰を切ったように泣き出してしまう。
この時点で、すでにアキラはめんどくさい……と思い始めていたのだけれど、なにぶん号泣している人を見捨てるほどには、まだ冷たくなかった。
恋の座るベンチの隣へ腰掛け、ポンポンと優しく背中をなでる。手のかかる幼馴染が泣いた時に、いつもしているように。
「ごめんね。ごかいしちゃってさ」
「うぅ……」
泣いている恋の横顔を見ながら、アキラは内心(バカ桜より可愛い顔してるよなぁ……)と少し思いつつ、改めて口を開く。
「じゃあさ、髪きればいいじゃない?」
アキラは小学校でも珍しくなってきた坊主頭――幼馴染の『ママ』がバリカンで刈ってくれる――で、元々あまり外見に気を使うタイプではない。彼としては純粋に好意で提案したのだが、それは恋の強い反発を招いた。
「いや! ボクの髪は母さんが最後に切ってくれたんや。『これがボクには一番似合う』って! だから、だから……」
「……」
父と母が別居することになり、いくつかの理由で祖父母へとひきとられた恋。離れ離れになった母との思い出がつまった髪型だった。
お風呂で洗ってもらった日々や、忙しい時間の合間をぬって散髪をしてくれた事。舞台の稽古で忙しく、あまり会話をする事がなかった父から、くしゃくしゃと頭を撫でられた喜び。
遠く離れても、せめて母が褒めてくれた髪型でいたい……と、それは恋にとって頑なに守るべき願い。
「そっか……。うん、確かにすっごく似合ってる。お母さんの言うとおりだね」
「……っ」
それはお世辞だったのかもしれないし、なんとか泣き止ませたいアキラの方便だったのかもしれない。けれど恋にとっては、この町に来て初めてとも呼べる優しい言葉だった。
「お父さんとお母さんと一緒に住んでないの? さっき、最後にって」
「うん、きっとボクのせいなんや。お父さんとお母さん、ボクのコトでいつも喧嘩しとってん」
「……ん」
ポロポロと未だに泣きながら、しかし恋はゆっくりと口を開く。京都で暮らしている間、自分が原因で何度も両親が喧嘩していたのを見てきた。
漠然としか理由はわからない。けれど幼い子供にだって、自分が原因になっている事くらいはわかる。両親の怒鳴りあいの中で、『伝統』や『風習』、そして頻繁に自分の名前が出ていたのだから。
ぐちゃぐちゃな感情の中、夕日の差し込むベンチで恋はポツリポツリと呟いた。アキラに聞かせよう……という訳ではない。ただどうしようもなく辛くて、言わずにいられなかった。
「ふうん。でも、ボクにもよくわかんないけどさ……」
「……」
ふぅ……と子供らしからぬため息をつきながらアキラは口を開く。大好きな母親『先生』が、診療室で患者さんに必ず言っている言葉を伝えるために。
母さんは患者さんに、この言葉を何度も何度も言っていた。物陰や待機室で、アキラが何度も聞いた台詞。
「それって、絶対に君の所為じゃないよ。だって、君がお父さんとお母さんが喧嘩しろって考えてた訳じゃないよね?」
「そんなのっ、あたりまえ……。いつも仲良くして、仲良くしてほしかってんっ!」
「うん」
大きな二重の瞳から涙をこぼしつつ、初めて恋はアキラの顔を見た。ほんのり茶色をしたその瞳と、アキラの真っ黒な瞳が見つめあう。
「だから、悪いのは絶対に君じゃないんだ。ボクの母さんはいつも言ってる。『悪いのは病気です、絶対にあなたが悪い訳じゃない。けっして自分を責めないで下さい』って」
大きな病気になってしまった人は、どうしても自分を責める。私が怪我をしたから、私が病気になったから、親に、子供に、夫に、妻に、友人に、迷惑をかけて申し訳ない。自分の所為で……と己を責めて卑屈になってしまう。
でも、それは絶対に違うのだと。患者さんが望んで病気になった訳じゃない。卑屈になり、己を責めて、自己を嫌うのは間違ってる。
「決して君の所為じゃないよ。悔やんだり、泣いたりするのは、病気に……状況に負けるって事なんだ」
「ボク……の所為じゃない?」
医者は患者が病気と戦うのを手助けすることしか出来ない。患者がしなければいけない事は、医者と共に病気と戦い打ち勝つ事であって、決して自分を責めることじゃない、と。
完全に母親の受け売りであったけれど、アキラは子供特有の熱っぽさで真剣に語った。
「ほんと……?」
「そうだよ、絶対にそうだ! 泣いたり、悲しんだり、そんなに辛いのが君のせいなワケないじゃんかっ」
「……」
アキラの真っ黒な瞳は夕日に照らされ、恋の目にはまるで燃えているように見えた。少年の全身からわきだす圧倒的な思い――母親『先生』が間違った事をいうハズがない――が、恋の心に伝染するかのよう。
「あ、ありがとう」
小学2年生という年齢では、アキラの母親が言いたい事などまだ理解できていないかもしれない。
けれど恋にとって『君は絶対に悪くない』と、存在を肯定された事だけはわかったし、それは何よりも嬉しかった。大げさに言えば、この瞬間……恋は救われたようにさえ感じた。
自分は自分でいいのだと。
未だに少し潤んだ瞳で、けれど恋はニッコリとした笑顔を浮かべた。それはアキラの心にズキンとした衝撃を与えるほど可愛らしい微笑みで……。
「あ、いや。別にっ……ていうか、ボク帰る!」
「えっ」
どこか慌てたように駆け出すアキラの背中を、恋はベンチに座ったまま見つめ続けた。両親と離れ離れになってしまった寂しさは消えない。
けれど、少しだけ自分の気持ちが楽になった事を感じていた。自分の顔、体の事、両親の事……今まで恋を苦しめてきた色々な要因は確かに、アキラの言葉をきっかけにして薄れ始めていた。
「……ありがとう」
ポツリ、と誰もいない空間に呟いて、恋も立ち上がり家へと歩き始める。その足取りは少し軽く、元気そうに見えた。
◇◇◇
「みづきさん。そのねっ……すっごく退屈でしかたないの。だから行きたくないけど……えっと、図書館に送って貰えないかしら?」
朝の9時。新江崎家の私室で作業をしていたみづきにかけられた言葉。
いつのまにそんな時間に……、と少々驚きつつも彼女は椅子から立ち上がり、主人――沙織お嬢様――の方向を見た。
と、そこには「暇だ……」と言う割りに不自然なくらいおしゃれをしている沙織お嬢様がいて、思わず浮かびそうになる微笑みをみづきは必死で我慢する羽目になった。
「かしこまりました沙織様。私も今日は図書館で司書をしますので、ちょうど良かったです」
「そ、そうなの!?」
「はい。何か不都合でも?」
「べ、別にありませんわっ」
今日のお嬢様は黒髪をきっちりと頭部へ編み、ほっそりしたうなじと首元を大胆に露出したスタイル。そこをピンク色のスパンコール付カチューシャで飾りつけ、耳には星とハートのイヤリング。
洋服はノースリーブタイプの白色ワンピース。裾は膝くらいの長さ、体のラインがわかるタイトなデザイン。足元は軽めのサンダルでまとめており、普段のかっちりした印象とは真逆の可愛らしいファッション。
「お嬢様はスタイルがいいですから、何をお召しになっても似合いますね」
「――っ、たまたま……手に取った服がコレだっただけ。もう、行くわよ!」
「ええ、ふふっ」
ガレージへと向かい早足で進むお嬢様の後を、みづきはぴったりとついていく。近くに寄ると、今日のお嬢様はうっすらと化粧をしている事に気づいた。唇には輝きのあるグロス、ぱっちりした瞳にはマスカラなど。
あくまでも、ごくさりげなく……といった感じだけれど。これから会う人に可愛く思われたい、けれどもわざわざおしゃれをしてきたと思われたくない……といった所だろうか? そういった天邪鬼な部分は母親譲りだと、みづきはいつも思う。
「みづきさん、もしかして笑ってない?」
「いえ、とんでもない。ふふっ」
「ほら、やっぱり笑ってる。もうっ」
そんな楽しい掛け合いを続けつつ、車へと乗り込む。そうしてお嬢様は、後部座席へポスンッといった感じで勢いよく座り込み、むき出しの腕を組む。その指先には丁寧にネイルアートまでされていて、それがまたみづきの笑いを誘う。
「もうっ、みづきさんったら」
「失礼しました。それでは行きますね」
ゆっくりとキーをまわし、なめらかな感触のアクセルを踏み込む。チラチラとミラーでお嬢様の様子を見れば、どこかそわそわとした待ちきれない雰囲気。ツンとした表情の中に、どこか焦がれるような切なさが見て取れた。
「沙織お嬢様」
「え?」
「今日は楽しんで下さいね」
みづきは大切な主人へ慈しみを込めて言う。普段のお嬢様がどれくらい大変なのか、それを一番よく知っていたから。
――合気道、茶道、書道は幼少の頃からみっちりと。小学校3年くらいから、新体操、テニス、クラシックバレエ、ピアノにバイオリンと遊ぶ時間などほとんどない稽古の日々。加えて、勉強の方も全国で上位を常に維持し続けているのだから、その努力はいったいどれほどのものだろうか?
「その、みづきさん?」
「はい」
「送ってくれてありがとう」
「ふふ、お気になさらず。明日のテニスではみっちり鍛えて差し上げますから」
主従関係ながらも年齢の離れた姉妹のようでもある二人。みづきはゆったりと左手で髪をかきあげながら、鏡越しに美しく微笑む。
本日のお嬢様のささやかなデート。それを誰にも邪魔はさせない……と、決意しながら。
◆
お嬢様と一緒に図書館に到着し、手際よく司書の業務をみづきが引き継いだのが9時30分。ちょうど図書館の開館する時刻だった。
が、肝心の彼――柊あきら君――の姿はまだなく、みるみる不機嫌になっていくお嬢様の相手をみづきは務めることになった。当初こそ入り口近くのソファーに腰掛け、ピンク色に紅潮した頬で何度も入り口を――さりげなく――ソワソワと眺めていたお嬢様だったが、開館から5分、10分と時が経つにつれ不穏な雰囲気へと変わりだす。
まだ誰もいない図書館の中に言葉にできないプレッシャーが充満していて、みづきは空気に耐えられずに口を開いた。
「お嬢様? あの、ジャスミンティーでもご用意しま……」
「そんなのいらないっ、コーヒーにして!」
一ヶ月くらい前までコーヒー(けれどミルクがたっぷり入ったモノ)が好きだったお嬢様は、ここ最近ではジャスミンティーを愛飲している――理由は不明だが。けれど気にいらなかったらしく、みづきは久々にコーヒー豆を挽く事になった。
図書館の増築された場所にある新江崎家の倉庫――まあ倉庫とは言っても休憩室を兼ねており、まるでリビングのようにくつろげる部屋だけれども――へ向かいコーヒーミルをとってこようとした時、華やかな笑い声が聞こえた。
「ふふふっ。アキラって、ほーんと勉強好きだよね。夏休みも図書館なんてさ」
「うっせ。オマエだって今から走るんだろ? この運動バカ」
「もう、ひっどい。そんなの親友に言うかなぁ。ふふっ、お詫びに明日、何か買ってよ?」
「ふざけんなっ、映画みたらすぐ帰るから」
「そんな事言って。決めた、絶対になにか奢ってもらうもんねっ」
ふと目を向ければ、隣接した小学校からこの図書館へ向かい歩いている二つの影。一つは待ちに待った柊君で、もう一つは……。
「あっ、司書さん……じゃなくって、水仙原さん。おはようございます」
「え!? あ、始めまして。ボク、アキラの親友で神無月恋って言います。おはようございます!」
「ええ、おはようございます」
みづきは優雅に一礼を行いながらも、柊君の隣へ寄り添うように立っている神無月君? ちゃん? を見た。
――背は小さめで華奢な体型。けれど体操着から伸びる褐色の手足は引き締まっていて、弾けそうなほど元気が満ち溢れている。髪はふんわりとしたボブカットでキャラメルのような柔らかな色合い。
ぱっちりとした大きな瞳に長く繊細そうなまつ毛。ぷっくりしたピンク色の唇はニコニコと楽しそうに微笑んでいる。顔立ちはすばらしく可愛い――お嬢様の美しさをバラに例えるなら、こちらは向日葵のよう――で、しかも中性的な不思議な透明感が漂っている。
たぶん男の子なのだろうけれど、スパッツから伸びた太ももは健康的ながらも、どこか色っぽい。
「じゃあな恋。ボク図書館に入るから」
「うんっ、じゃあね。後で邪魔にきちゃうかもよ? あははっ」
「バカ、さっさと行けよ」
柊君より頭一つ低い神無月君は、下から見上げるように彼に笑いかけて、元気よく校庭まで駆けていく。その後姿までみずみずしい活力に溢れているように、みづきには見えた。
「水仙原さん、今日もお邪魔します。……えっと、それで新江崎さんは?」
「ええ。とっくに図書館の中でお待ちですよ」
お嬢様がどれほど機嫌が悪いか……など予想もしていないのだろう。柊君は大きめの手提げバッグを持ったまま、のんびりした足取りで入り口へと向かっていく。ごく普通のジーンズにグレーのTシャツ姿……、今日が図書館での『デート』とは欠片も思ってない様子。
待ち受けているであろうお嬢様との修羅場を見たい……とみずきは強く思ったが、秘書らしく自分をぐっと抑えてコーヒーミルを取りに行くことにする。
なぜなら、見なくてもある程度予想がついていたから。
「お嬢様……」
きっと最初の一分くらい散々に罵倒し、それからなにげなく隣にたって一緒に医療資料室へ向かうのだろう。内心、ものすごく喜び、安堵しながら。
それは子供の頃から何一つ変わってないお嬢様のスタイル。まだ幼い頃、仕事で遅くなった父親に文句を言いながらも、すぐにべったりと甘えていた姿を思い出す。
――医者という仕事は、家庭を、幼い我が子を悲しませてもなお、やり通さなければならない仕事だったのだろうか? 脳裏に浮かぶお嬢様の父親――そしてみづきの初恋の相手――へ、いろいろな感情が混じったまま、彼女は小さくため息をついた。
◆
みづきは独り、図書館の準備室でコーヒーを飲みながら壁につけられている時計を眺めた。時刻は一時をまわったあたり。今頃、お嬢様と柊君は仲良く食事をしているだろうか? そうだったらいい……とぼんやり思いつつも、2時間ほど前にポットとカップを持っていった時の事を考える。
「失礼しますね。コーヒーをお持ちしました」
「……静かに入って」
扉を小さくノックし医療資料室へ入ろうとしたみづきへ、沙織お嬢様のごく小さな――けれど強い――声が届いた。いったい何事? といぶかしげに思いつつ扉を開くと……。
「――っ!」
医療資料室の机に座っている少年を見て、みづきは思わず息を呑む。その少年のすぐ隣に、寄り添うように――もしくは守るように――座っているお嬢様に気づくけれど、会釈する事さえ忘れてしまう。
「……」
無言のまま視線だけで、近くの机へ置いておいて……とお嬢様が指示をだす。それに従いつつも瞳は少年の横顔から離れない。
(こんな……)
みづきは本を読む事が好きで、物語に夢中になって本の世界へ入り込む事も当然あった。そういう時は、人に話しかけられても上の空になるし、そもそも何を言われたかなんて耳に入らない。
けれど目前に座っている少年――つい数時間まではぼんやりした普通の男の子――は、それとは全く違う。まるで命そのものを削っているかのよう。
鬼気迫るという表現そのままに、少年は目の前に置いてある本を読みながら指先を小さく動かしていた。少年はみづきが入室した事も、ひょっとすると隣にお嬢様がいることさえ気づいていないのかもしれない。
平凡だったはずの少年の顔は引き締まり、まるで試練に挑む苦行者じみて見える。いつも眠そうにしている瞳は爛々と輝き、みづきの背筋がうすら寒くなるほど活力に満ちていた。
そして、その指先の動き……。
「いったい?」
何かの目的を持って指先を動かしていることはわかった。たぶん、少年のイメージではハサミのようなモノを動かしているのだろう、と。
だが、そのスピード……。苦しそうに歯を食いしばり、額に若干の汗さえにじませながら、少年は凄まじい速度で精緻な動作を反復していた。まるで機械のようにさえ見える。
みづきは少年――ついさっきまで平凡だと思っていた小学生――の体からあふれている迫力に飲まれ、その場に立ちすくんでしまう。
その時、お嬢様の柔らかな声が響く。
「柊クン、休憩にいたしましょう?」
柔らかな……まるで子供をあやす母親のように優しい響きを持った声。しかし、少年は一切の反応を見せずに一心不乱に指先を動かしていた。が、お嬢様は辛抱強く、何度も少年に声をかける。けっして声を荒げず、あくまでも少年を慈しむように……。
「……っ」
みづきはその空気に耐えられず、そっと資料室をでた。背中の冷たい汗を感じつつ。
――お嬢様は、毎週あんなふうに過ごしていたのだろうか? ひたむきに本へ没頭している少年を守るように。週に一度の短い自由時間を、ほとんど会話もせずただ見つめているだけで。
「なんて……」
あまりに不器用で一途な初恋だろう。お嬢様の端整な美貌、小学生とは思えぬスタイルからすれば――それこそ母親である現当主のように――男性を支配し君臨する事も簡単だろうに。
しかし現実はまるで逆。この町の時期支配者――なにせ町の税収の90%以上は新江崎関連の施設からでているのだ――とも言える少女は、助手やメイドのように少年を見守っているだけで。
「それに」
そもそも、新江崎家の現当主がこの事を知ったら唯ではすまない。
現当主――沙織お嬢様の実母――が、この町唯一の医者である柊ノゾミを憎々しく思っているのは周知の事実。時期当主として教育と期待をよせている娘が、よりにもよって憎い女医の息子と週に一回図書館で会っているなどと知ったら。
みづきは自分の役目として、現当主にこの事実を報告すべきか? と考える。
「……」
深く椅子に座り直し、コーヒーを飲みながら窓の外をぼんやりと眺める。今の憂鬱な気分にぴったりの暗い空が広がっており、時折雨も降っているようだった。
そして、お嬢様の事は報告しない……とみづきは決断する。主人の初恋の味方をする……という理由だけではなく、沙織お嬢様の性格を考えると、母親から妨害が入った場合にとんでもない暴走をする恐れがあった。
けれど、このまま放置していてもあの初恋は燃え上がるかもしれない。その時はどうすればいいのか? 考えても仕方ないと思うけれど、未来の事を思うとみづきは気が滅入る。
「……エステでも行きたいわね」
みづきは大学時代からエステに通うのが好きで、それが高じてエステティシャンの資格まで持っていた。元々はテニスの後に筋肉をほぐす為に行っていたのだが。今となっては、仕事で疲れた体を癒すほうが多い。
すでに昼からは別の司書が勤務しており――元々お嬢様の予定に合わせ、みづきも今日は休みではあった――特に用もない。閉館時間までこの準備室で読書をして過ごし、お嬢様を屋敷へと送った後でエステに行こう……と予定を立てる。
それに、窓の外の雨はますます激しさを増しており、読書日和と言えなくもなかった。みづきは気分を入れ替えるように椅子から立ち上がり、自分の本をとる為に窓際にある本棚へと歩く。
「――?」
その時、視界の端に何かがうつった。窓の外、少し出っ張った雨よけのひさしの部分に誰かが座り込んでいるような……。
目をこらして見れば間違いない。それは小柄でびしょぬれの体操服を着た、とても可愛い顔立ちの男の子。まぎれもなく朝に挨拶をしたあの少年だった。
神無月恋 『アキラを待ちながら』 前編
◆
早朝4時の目覚め……新江崎家第二秘書として、水仙原みづきの朝は早い。それは彼女の従えるべき主人――沙織お嬢様――が夏休みに入っても変わる事はなかった。
沙織お嬢様が合気道の練習に備えて4時半に起床する前に、身だしなみを整えておかねばならないからだ。
今年で25歳、中学、高校、大学と続けてきたテニスの成果か、均整のとれたスタイルをダークグレーのスーツで包む。肩ほどの長さ、ゆるくウェーブした軽い赤毛の髪を丁寧にブラシでとかし、ごく軽く化粧を終える。
そうして、同じく幼少から学び続けてきた茶道で身につけた、優雅さの漂う動作でお嬢様の部屋の扉を開く。
時刻はきっちりと4時30分。この数年、一度もずれたことは無い。
「おはようございます、沙織お嬢様。こちらにジャスミンティーをご用意しております」
「ん……ありがとう、みづきさん」
寝起き直後の沙織お嬢様は普段のツンとした様子とは異なり、年齢相応の無防備さが見える。赤と白のギンガムチェックのパジャマにはいくつものシワがより、艶やかな黒髪も乱れていた。
あくびを押し殺し、眠そうな様子を必死に見せないように我慢している所も可愛い……と、みづきはいつも思う。この無防備な姿を見る為なら、毎朝4時に起きる事さえ構わないとも。
ベッドから部屋中央にあるチェアへゆっくりと腰掛け、寝起き直後のピンク色をした唇を白磁のティーカップへとつける沙織お嬢様。
その様子を見守りつつ、みづきはさりげなく口を開く。大切な主人をちょっとからかいたくて。
「そう言えば……。お嬢様、今日は待ちに待った金曜日ですね」
「――っっ! みづきさん、私っ、べ、別に待ちに待ってなんかっ」
みづきの予想通り、思いっきり動揺した様子で顔を赤らめるお嬢様。あわてて立ち上がろうとして、ガタンッ! とテーブル――イタリアの職人が作った高級品――が揺れた。
母親――新江崎家現当主――譲りのクールな美貌が、動揺の為か可愛らしく見える。
「そうですか? 夏休みに入って初めて何も予定の無い日ですので、さぞかし楽しみにされているだろう……と、思っていたのですが」
「えっ、あ! そ……そうね。その……うん、そう、今日は暇ですわ。ええ」
胸の奥からこみ上げそうになる笑いに堪えながら、何食わぬ顔でみづきはジャスミンティーのお替りを注ぐ。周囲へ立ち昇るえもいわれぬ花の香り。その芳香がしばしの沈黙を誘った。
未だに顔を赤らめたまま、気持ちを静めるようにくるくると長い黒髪を指先で弄っているお嬢様。その姿を横目で捉えつつ、再度みづきは爆弾を放り込む。
あくまでもさりげなく――これぞ秘書のたしなみ――だ。
「お嬢様、今日は図書館で過ごされるのですか?」
「――んっ!!! な、なんでっ!!」
軽くジャスミンティーに咽つつ、普段の様子からはありえないほど大声を上げるお嬢様。耳はおろか、ギンガムチェックのパジャマからみえる首筋まで赤く紅潮している。
その理由を百も承知しながら、みづきはあくまでも何気なく言葉を返した。
「いえ。最近、お嬢様はよく図書館へおいでですので。もし来られるのであれば、昼食の手配でも……、と」
「う……、わ、わからないわ。暇で仕方なく、そうよっ、退屈したら仕方なく行きます。あ、あとお昼はいらないわ。その……どこかで食べるから」
「はい、かしこまりました」
カチャリとカップを片付けながら、お嬢様に一礼をしてみづきは部屋を出る。いまにも笑みがこぼれそうになるのを必死で堪えつつ。
みづきの脳裏に浮かぶのは先週の金曜日、そう……お嬢様の1学期最後となる金曜日の事だ。
「ねえ姫……じゃなかった。新江崎さんってさ、夏休みは暇なの?」
「――っ! 全く……柊クンと一緒にしないで頂ける? 私、新江崎家の次期当主としてとーっても忙しいの。そうよ、今日だって、すっごく無理してるんだからね! 感謝しなさい!」
「うっ、ありがとう」
図書館と医療関係の本が収めてある小部屋を隔てる扉の前で、たまたま掃除をしていたみづきの耳に聞こえてきた声。それはまぎれもなく彼女の主人である新江崎沙織と友人? の柊アキラ君の声だった。
こういう盗み聞きは秘書としてあるまじき行為……とわかっているが、あまりにも楽しそうな内容につい、聞き耳を立ててしまう。
「その……それで何?」
「ん?」
「だから、私がもし、もしもよ! 仮に暇だったら何なの? さっさと言いなさいよっ」
再び響くお嬢様のツンケンとした不機嫌そうな声。けれど、みづきは知っていた。あの誕生日パーティーの夜から……『何か』お嬢様の態度が違うという事を。
柊君、みづきの目から見ても誠実そうで真面目な少年。しかしずば抜けてかっこいい訳でもなく、いつも眠そうにしている……という印象が強かった。だが、どうもお嬢様の態度がおかしい。
チラチラと横目で彼の唇を見たり、指先をみつめたりしている時があった。彼が何かを言うだけで、顔を赤らめる事もしばしば。
もしかしたらキスでも……と思ったが、それにしては少年の態度は平然としすぎており、どうも良くわからない。が、お嬢様が少年に好意を抱いているのは確実で、秘書としても、姉代わり保護者代わりの立場としても、みづきはこの会話を聞き逃す訳にはいかない。
「ん? 前も少し言ったけどさ、夏休みの間も毎週金曜に図書館を使わせて欲しいなぁって。その、新江崎さんの予定はどう?」
「っ!」
聞こえてきた内容に、思わずみづきの頬が笑みで緩む。
つい1週間ほど前になるが、沙織お嬢様が「夏休み期間中も、金曜日だけは絶対に予定をいれないように!」と言っていた事を思い出したから。
「ふ、ふーん。そんな事言ってたかしら? 柊クンの都合なんて興味ないし、全然覚えてなかったわ。それで?」
「え、何が?」
扉越しにさえ、お嬢様の声が嬉しそうにほんの少しうわずっているのがわかる。と言っても、ほんの僅かしかトーンが変わらない為、少年には相変わらず不機嫌そうに聞こえるだろうけれども。
「ねえ柊クン? つまり貴方は忙しい私に、どうしても金曜日に来て欲しいってお願いしてる訳よね。なら、何かお礼をしたいとか思わないのかしら?」
「姫が無理ならボク独りでも別に……」
「何かおっしゃいました?」
「う、ううん。別にっ」
この年頃の男の子というのは、やはり恋愛ごとに興味がないのだろう……と改めてみづきは思った。
お嬢様が毎週金曜日の放課後、彼が図書館を訪れる30分も前から鏡で何度も制服をチェックし、ニキビを必死にファンデーションとコンシーラーで隠しているなど、彼は想像した事もないはずだ。
「なら、お礼に昼ご飯を作ってくるよ。サンドウィッチとかでいい?」
「柊クンが作るの!?」
「うん、味はまぁまぁだと思うけど……嫌いなものってある?」
ほとんど不審者のように聞き耳を立てながら、みづきは興味津々で成り行きを見守った。(と、言っても見てはいないが)
彼女の主人である沙織お嬢様の数少ない欠点が、料理が不得意だという事だから。まあなにぶん、新江崎家のキッチンは広すぎ、また取り揃えてある調味料も多すぎる為に、初心者では料理がしにくい環境だという事もあるのだろう。
それに普段食べている料理は一流シェフの作るモノばかり。自然、比較する対象のハードルは高くなる。
という訳で、過去に何度か料理に挑戦したお嬢様は、あまり結果に納得出来なかったこともあり、今では調理器具を握る事もない。
「特に無いけど……」
「そっか。じゃあお礼の意味を込めて、丁寧に作ってくる。ありがとう、新江崎さん」
「っ! 期待なんてしないわよっ」
「あははっ、わかってるよ」
一通りの会話を聞き終えたみづきは、すばやく扉の前を離れた。それから何食わぬ顔で事務処理を始めたのだが……数分後、お手洗いに資料室から出てきた沙織お嬢様の顔を見て、笑いをこらえるのが大変だった。
なんとか平静を装おうとしているお嬢様――普段どおりにツンと背筋を伸ばし、優雅に足を出している――だったが、口元は幸せそうに微笑んでいたから。
――それがちょうど先週の事。図書館の司書として、新江崎家第二秘書として、そして単なる野次馬として、今日は絶対に図書館で一日中仕事をしよう……と、水仙原みづきは決意した。
◇
神無月恋は小学校2年の夏、あと数週間で夏休みが始まる……という、どこか浮ついた時期に京都から転校してきた。
小学校6年の今でこそ、恋は委員長として皆から頼られて人望もあり、明るく活発な超美少年? という評判を得ているが、転校当初はまったく違っていた。
関西から関東へ引っ越してきた場合――しかも閉鎖的なこの町で――最も標的になるのが言葉……いわゆる関西弁。
それに加えて、恋の目立ちすぎるほど可愛い顔――なんと言っても、60人という学年全員が今度の転校生は女子だと思っていたくらい――が、悪い意味で作用した。
同級生の中で、郡を抜いて華奢で小さな体格。肌は抜けるように真っ白で、瞳はパッチリとした二重。ぷっくりした唇は艶々と自然に輝き、子猫のような柔らかな髪は軽いくせっ毛で、ふんわりと耳を隠すくらいのショートボブ。
シンプルな黄色のTシャツ、半ズボンという格好でさえ、まるでTVの子役女優のよう。
「今度のよそ者はおかま」
「ハードゲイ」
「おとこおんな」
間が悪い事に、その当時にゲイを売り物にした芸人が流行しており、恋は格好の標的となった。友達と呼べる存在などまだ当然おらず、またイジメ――といってもからかいのようなレベルだったが――に加担していないクラスメート達は、目前に迫った夏休みが楽しみで、擁護する者など現れない。
「やめてよっ。ボクはゲイちゃう……違うもん。っっっ……」
「泣いた、よそ者が泣いたぞ。あははっ」
「違う、違うからっ……。ボク、ボク……」
家に帰っても厳しい祖父と無口な祖母がいるだけで、頼れる雰囲気はなく相談もしにくい。転校直後の恋は、昼休みや休み時間になると、独りでポツンと校舎外れのベンチに座るのが日課になった。
が、そうなると上級生や先生がやたらと声をかけてくるのだが、決まって……、
「えっ、君って男の子なの? うそっ、だってこんなに色も白いし……髪だって」
「やめて、男だもん。ボクは男……。いいから、かまわんとって!」
父や母、京都にいる友人が恋しくて、さびしくて仕方がなく、周囲からの好奇の視線が辛かった。関西弁をからかわれる事から、言葉を喋る事そのものが怖くなり先生にさえ相談できない。
また、恋が女の子と誤解されやすい要因の一つとしてあった髪型。それは恋の茶色でふんわりした髪質とあいまって、まさに少女のように見えた。似合いすぎた……と言ってもいい。
髪を他の男子くらいに短く切れ……と祖父などは言うが、恋にはどうしても切りたくない理由があった。何もかもが手詰まりで、小さな恋はただ苦しみ、遠くはなれた父母を慕って泣いてばかり。
――恋がアキラと出会い、会話をしたのはちょうどそんな時期。真っ赤な夕焼けが見える校舎の外れのベンチ、蒸し暑くけだるい時間だった。
「なあ、怪我でもしたの?」
「……」
恋は知る由もなかったけれど、その夜にアキラは母親と外食に行く約束をしており――結局、急患の為に行けなかったが――非常に機嫌が良かった。その為、普段は他人に興味の無い彼が、珍しく思いやりを発揮した瞬間だった。
「……怪我なんか」
「ふーん。なら、なんでうつむいてるの? どっか痛い? 保健室につれていこっか?」
「うるさい!」
互いにクラスメートだとは知らず、ただすれ違いの会話だけが続く。ここで幸運だったのは、桜――アキラの一学年下で妹同然の存在――が、その日は父親が工場から家へ戻ってくる日であったためにすでに帰宅しており、アキラには時間が有り余っていた事。
「だってさ、桜が『女の子には親切にするものよ』って、よく言ってるし」
「――っっ! ちゃうもん、ボク男だもん。もうやだ。こんな、こんなのっ、うううっっ」
「へ?」
恋は何気ないアキラの言葉をきっかけにして、こらえていた感情があふれ出し堰を切ったように泣き出してしまう。
この時点で、すでにアキラはめんどくさい……と思い始めていたのだけれど、なにぶん号泣している人を見捨てるほどには、まだ冷たくなかった。
恋の座るベンチの隣へ腰掛け、ポンポンと優しく背中をなでる。手のかかる幼馴染が泣いた時に、いつもしているように。
「ごめんね。ごかいしちゃってさ」
「うぅ……」
泣いている恋の横顔を見ながら、アキラは内心(バカ桜より可愛い顔してるよなぁ……)と少し思いつつ、改めて口を開く。
「じゃあさ、髪きればいいじゃない?」
アキラは小学校でも珍しくなってきた坊主頭――幼馴染の『ママ』がバリカンで刈ってくれる――で、元々あまり外見に気を使うタイプではない。彼としては純粋に好意で提案したのだが、それは恋の強い反発を招いた。
「いや! ボクの髪は母さんが最後に切ってくれたんや。『これがボクには一番似合う』って! だから、だから……」
「……」
父と母が別居することになり、いくつかの理由で祖父母へとひきとられた恋。離れ離れになった母との思い出がつまった髪型だった。
お風呂で洗ってもらった日々や、忙しい時間の合間をぬって散髪をしてくれた事。舞台の稽古で忙しく、あまり会話をする事がなかった父から、くしゃくしゃと頭を撫でられた喜び。
遠く離れても、せめて母が褒めてくれた髪型でいたい……と、それは恋にとって頑なに守るべき願い。
「そっか……。うん、確かにすっごく似合ってる。お母さんの言うとおりだね」
「……っ」
それはお世辞だったのかもしれないし、なんとか泣き止ませたいアキラの方便だったのかもしれない。けれど恋にとっては、この町に来て初めてとも呼べる優しい言葉だった。
「お父さんとお母さんと一緒に住んでないの? さっき、最後にって」
「うん、きっとボクのせいなんや。お父さんとお母さん、ボクのコトでいつも喧嘩しとってん」
「……ん」
ポロポロと未だに泣きながら、しかし恋はゆっくりと口を開く。京都で暮らしている間、自分が原因で何度も両親が喧嘩していたのを見てきた。
漠然としか理由はわからない。けれど幼い子供にだって、自分が原因になっている事くらいはわかる。両親の怒鳴りあいの中で、『伝統』や『風習』、そして頻繁に自分の名前が出ていたのだから。
ぐちゃぐちゃな感情の中、夕日の差し込むベンチで恋はポツリポツリと呟いた。アキラに聞かせよう……という訳ではない。ただどうしようもなく辛くて、言わずにいられなかった。
「ふうん。でも、ボクにもよくわかんないけどさ……」
「……」
ふぅ……と子供らしからぬため息をつきながらアキラは口を開く。大好きな母親『先生』が、診療室で患者さんに必ず言っている言葉を伝えるために。
母さんは患者さんに、この言葉を何度も何度も言っていた。物陰や待機室で、アキラが何度も聞いた台詞。
「それって、絶対に君の所為じゃないよ。だって、君がお父さんとお母さんが喧嘩しろって考えてた訳じゃないよね?」
「そんなのっ、あたりまえ……。いつも仲良くして、仲良くしてほしかってんっ!」
「うん」
大きな二重の瞳から涙をこぼしつつ、初めて恋はアキラの顔を見た。ほんのり茶色をしたその瞳と、アキラの真っ黒な瞳が見つめあう。
「だから、悪いのは絶対に君じゃないんだ。ボクの母さんはいつも言ってる。『悪いのは病気です、絶対にあなたが悪い訳じゃない。けっして自分を責めないで下さい』って」
大きな病気になってしまった人は、どうしても自分を責める。私が怪我をしたから、私が病気になったから、親に、子供に、夫に、妻に、友人に、迷惑をかけて申し訳ない。自分の所為で……と己を責めて卑屈になってしまう。
でも、それは絶対に違うのだと。患者さんが望んで病気になった訳じゃない。卑屈になり、己を責めて、自己を嫌うのは間違ってる。
「決して君の所為じゃないよ。悔やんだり、泣いたりするのは、病気に……状況に負けるって事なんだ」
「ボク……の所為じゃない?」
医者は患者が病気と戦うのを手助けすることしか出来ない。患者がしなければいけない事は、医者と共に病気と戦い打ち勝つ事であって、決して自分を責めることじゃない、と。
完全に母親の受け売りであったけれど、アキラは子供特有の熱っぽさで真剣に語った。
「ほんと……?」
「そうだよ、絶対にそうだ! 泣いたり、悲しんだり、そんなに辛いのが君のせいなワケないじゃんかっ」
「……」
アキラの真っ黒な瞳は夕日に照らされ、恋の目にはまるで燃えているように見えた。少年の全身からわきだす圧倒的な思い――母親『先生』が間違った事をいうハズがない――が、恋の心に伝染するかのよう。
「あ、ありがとう」
小学2年生という年齢では、アキラの母親が言いたい事などまだ理解できていないかもしれない。
けれど恋にとって『君は絶対に悪くない』と、存在を肯定された事だけはわかったし、それは何よりも嬉しかった。大げさに言えば、この瞬間……恋は救われたようにさえ感じた。
自分は自分でいいのだと。
未だに少し潤んだ瞳で、けれど恋はニッコリとした笑顔を浮かべた。それはアキラの心にズキンとした衝撃を与えるほど可愛らしい微笑みで……。
「あ、いや。別にっ……ていうか、ボク帰る!」
「えっ」
どこか慌てたように駆け出すアキラの背中を、恋はベンチに座ったまま見つめ続けた。両親と離れ離れになってしまった寂しさは消えない。
けれど、少しだけ自分の気持ちが楽になった事を感じていた。自分の顔、体の事、両親の事……今まで恋を苦しめてきた色々な要因は確かに、アキラの言葉をきっかけにして薄れ始めていた。
「……ありがとう」
ポツリ、と誰もいない空間に呟いて、恋も立ち上がり家へと歩き始める。その足取りは少し軽く、元気そうに見えた。
◇◇◇
「みづきさん。そのねっ……すっごく退屈でしかたないの。だから行きたくないけど……えっと、図書館に送って貰えないかしら?」
朝の9時。新江崎家の私室で作業をしていたみづきにかけられた言葉。
いつのまにそんな時間に……、と少々驚きつつも彼女は椅子から立ち上がり、主人――沙織お嬢様――の方向を見た。
と、そこには「暇だ……」と言う割りに不自然なくらいおしゃれをしている沙織お嬢様がいて、思わず浮かびそうになる微笑みをみづきは必死で我慢する羽目になった。
「かしこまりました沙織様。私も今日は図書館で司書をしますので、ちょうど良かったです」
「そ、そうなの!?」
「はい。何か不都合でも?」
「べ、別にありませんわっ」
今日のお嬢様は黒髪をきっちりと頭部へ編み、ほっそりしたうなじと首元を大胆に露出したスタイル。そこをピンク色のスパンコール付カチューシャで飾りつけ、耳には星とハートのイヤリング。
洋服はノースリーブタイプの白色ワンピース。裾は膝くらいの長さ、体のラインがわかるタイトなデザイン。足元は軽めのサンダルでまとめており、普段のかっちりした印象とは真逆の可愛らしいファッション。
「お嬢様はスタイルがいいですから、何をお召しになっても似合いますね」
「――っ、たまたま……手に取った服がコレだっただけ。もう、行くわよ!」
「ええ、ふふっ」
ガレージへと向かい早足で進むお嬢様の後を、みづきはぴったりとついていく。近くに寄ると、今日のお嬢様はうっすらと化粧をしている事に気づいた。唇には輝きのあるグロス、ぱっちりした瞳にはマスカラなど。
あくまでも、ごくさりげなく……といった感じだけれど。これから会う人に可愛く思われたい、けれどもわざわざおしゃれをしてきたと思われたくない……といった所だろうか? そういった天邪鬼な部分は母親譲りだと、みづきはいつも思う。
「みづきさん、もしかして笑ってない?」
「いえ、とんでもない。ふふっ」
「ほら、やっぱり笑ってる。もうっ」
そんな楽しい掛け合いを続けつつ、車へと乗り込む。そうしてお嬢様は、後部座席へポスンッといった感じで勢いよく座り込み、むき出しの腕を組む。その指先には丁寧にネイルアートまでされていて、それがまたみづきの笑いを誘う。
「もうっ、みづきさんったら」
「失礼しました。それでは行きますね」
ゆっくりとキーをまわし、なめらかな感触のアクセルを踏み込む。チラチラとミラーでお嬢様の様子を見れば、どこかそわそわとした待ちきれない雰囲気。ツンとした表情の中に、どこか焦がれるような切なさが見て取れた。
「沙織お嬢様」
「え?」
「今日は楽しんで下さいね」
みづきは大切な主人へ慈しみを込めて言う。普段のお嬢様がどれくらい大変なのか、それを一番よく知っていたから。
――合気道、茶道、書道は幼少の頃からみっちりと。小学校3年くらいから、新体操、テニス、クラシックバレエ、ピアノにバイオリンと遊ぶ時間などほとんどない稽古の日々。加えて、勉強の方も全国で上位を常に維持し続けているのだから、その努力はいったいどれほどのものだろうか?
「その、みづきさん?」
「はい」
「送ってくれてありがとう」
「ふふ、お気になさらず。明日のテニスではみっちり鍛えて差し上げますから」
主従関係ながらも年齢の離れた姉妹のようでもある二人。みづきはゆったりと左手で髪をかきあげながら、鏡越しに美しく微笑む。
本日のお嬢様のささやかなデート。それを誰にも邪魔はさせない……と、決意しながら。
◆
お嬢様と一緒に図書館に到着し、手際よく司書の業務をみづきが引き継いだのが9時30分。ちょうど図書館の開館する時刻だった。
が、肝心の彼――柊あきら君――の姿はまだなく、みるみる不機嫌になっていくお嬢様の相手をみづきは務めることになった。当初こそ入り口近くのソファーに腰掛け、ピンク色に紅潮した頬で何度も入り口を――さりげなく――ソワソワと眺めていたお嬢様だったが、開館から5分、10分と時が経つにつれ不穏な雰囲気へと変わりだす。
まだ誰もいない図書館の中に言葉にできないプレッシャーが充満していて、みづきは空気に耐えられずに口を開いた。
「お嬢様? あの、ジャスミンティーでもご用意しま……」
「そんなのいらないっ、コーヒーにして!」
一ヶ月くらい前までコーヒー(けれどミルクがたっぷり入ったモノ)が好きだったお嬢様は、ここ最近ではジャスミンティーを愛飲している――理由は不明だが。けれど気にいらなかったらしく、みづきは久々にコーヒー豆を挽く事になった。
図書館の増築された場所にある新江崎家の倉庫――まあ倉庫とは言っても休憩室を兼ねており、まるでリビングのようにくつろげる部屋だけれども――へ向かいコーヒーミルをとってこようとした時、華やかな笑い声が聞こえた。
「ふふふっ。アキラって、ほーんと勉強好きだよね。夏休みも図書館なんてさ」
「うっせ。オマエだって今から走るんだろ? この運動バカ」
「もう、ひっどい。そんなの親友に言うかなぁ。ふふっ、お詫びに明日、何か買ってよ?」
「ふざけんなっ、映画みたらすぐ帰るから」
「そんな事言って。決めた、絶対になにか奢ってもらうもんねっ」
ふと目を向ければ、隣接した小学校からこの図書館へ向かい歩いている二つの影。一つは待ちに待った柊君で、もう一つは……。
「あっ、司書さん……じゃなくって、水仙原さん。おはようございます」
「え!? あ、始めまして。ボク、アキラの親友で神無月恋って言います。おはようございます!」
「ええ、おはようございます」
みづきは優雅に一礼を行いながらも、柊君の隣へ寄り添うように立っている神無月君? ちゃん? を見た。
――背は小さめで華奢な体型。けれど体操着から伸びる褐色の手足は引き締まっていて、弾けそうなほど元気が満ち溢れている。髪はふんわりとしたボブカットでキャラメルのような柔らかな色合い。
ぱっちりとした大きな瞳に長く繊細そうなまつ毛。ぷっくりしたピンク色の唇はニコニコと楽しそうに微笑んでいる。顔立ちはすばらしく可愛い――お嬢様の美しさをバラに例えるなら、こちらは向日葵のよう――で、しかも中性的な不思議な透明感が漂っている。
たぶん男の子なのだろうけれど、スパッツから伸びた太ももは健康的ながらも、どこか色っぽい。
「じゃあな恋。ボク図書館に入るから」
「うんっ、じゃあね。後で邪魔にきちゃうかもよ? あははっ」
「バカ、さっさと行けよ」
柊君より頭一つ低い神無月君は、下から見上げるように彼に笑いかけて、元気よく校庭まで駆けていく。その後姿までみずみずしい活力に溢れているように、みづきには見えた。
「水仙原さん、今日もお邪魔します。……えっと、それで新江崎さんは?」
「ええ。とっくに図書館の中でお待ちですよ」
お嬢様がどれほど機嫌が悪いか……など予想もしていないのだろう。柊君は大きめの手提げバッグを持ったまま、のんびりした足取りで入り口へと向かっていく。ごく普通のジーンズにグレーのTシャツ姿……、今日が図書館での『デート』とは欠片も思ってない様子。
待ち受けているであろうお嬢様との修羅場を見たい……とみずきは強く思ったが、秘書らしく自分をぐっと抑えてコーヒーミルを取りに行くことにする。
なぜなら、見なくてもある程度予想がついていたから。
「お嬢様……」
きっと最初の一分くらい散々に罵倒し、それからなにげなく隣にたって一緒に医療資料室へ向かうのだろう。内心、ものすごく喜び、安堵しながら。
それは子供の頃から何一つ変わってないお嬢様のスタイル。まだ幼い頃、仕事で遅くなった父親に文句を言いながらも、すぐにべったりと甘えていた姿を思い出す。
――医者という仕事は、家庭を、幼い我が子を悲しませてもなお、やり通さなければならない仕事だったのだろうか? 脳裏に浮かぶお嬢様の父親――そしてみづきの初恋の相手――へ、いろいろな感情が混じったまま、彼女は小さくため息をついた。
◆
みづきは独り、図書館の準備室でコーヒーを飲みながら壁につけられている時計を眺めた。時刻は一時をまわったあたり。今頃、お嬢様と柊君は仲良く食事をしているだろうか? そうだったらいい……とぼんやり思いつつも、2時間ほど前にポットとカップを持っていった時の事を考える。
「失礼しますね。コーヒーをお持ちしました」
「……静かに入って」
扉を小さくノックし医療資料室へ入ろうとしたみづきへ、沙織お嬢様のごく小さな――けれど強い――声が届いた。いったい何事? といぶかしげに思いつつ扉を開くと……。
「――っ!」
医療資料室の机に座っている少年を見て、みづきは思わず息を呑む。その少年のすぐ隣に、寄り添うように――もしくは守るように――座っているお嬢様に気づくけれど、会釈する事さえ忘れてしまう。
「……」
無言のまま視線だけで、近くの机へ置いておいて……とお嬢様が指示をだす。それに従いつつも瞳は少年の横顔から離れない。
(こんな……)
みづきは本を読む事が好きで、物語に夢中になって本の世界へ入り込む事も当然あった。そういう時は、人に話しかけられても上の空になるし、そもそも何を言われたかなんて耳に入らない。
けれど目前に座っている少年――つい数時間まではぼんやりした普通の男の子――は、それとは全く違う。まるで命そのものを削っているかのよう。
鬼気迫るという表現そのままに、少年は目の前に置いてある本を読みながら指先を小さく動かしていた。少年はみづきが入室した事も、ひょっとすると隣にお嬢様がいることさえ気づいていないのかもしれない。
平凡だったはずの少年の顔は引き締まり、まるで試練に挑む苦行者じみて見える。いつも眠そうにしている瞳は爛々と輝き、みづきの背筋がうすら寒くなるほど活力に満ちていた。
そして、その指先の動き……。
「いったい?」
何かの目的を持って指先を動かしていることはわかった。たぶん、少年のイメージではハサミのようなモノを動かしているのだろう、と。
だが、そのスピード……。苦しそうに歯を食いしばり、額に若干の汗さえにじませながら、少年は凄まじい速度で精緻な動作を反復していた。まるで機械のようにさえ見える。
みづきは少年――ついさっきまで平凡だと思っていた小学生――の体からあふれている迫力に飲まれ、その場に立ちすくんでしまう。
その時、お嬢様の柔らかな声が響く。
「柊クン、休憩にいたしましょう?」
柔らかな……まるで子供をあやす母親のように優しい響きを持った声。しかし、少年は一切の反応を見せずに一心不乱に指先を動かしていた。が、お嬢様は辛抱強く、何度も少年に声をかける。けっして声を荒げず、あくまでも少年を慈しむように……。
「……っ」
みづきはその空気に耐えられず、そっと資料室をでた。背中の冷たい汗を感じつつ。
――お嬢様は、毎週あんなふうに過ごしていたのだろうか? ひたむきに本へ没頭している少年を守るように。週に一度の短い自由時間を、ほとんど会話もせずただ見つめているだけで。
「なんて……」
あまりに不器用で一途な初恋だろう。お嬢様の端整な美貌、小学生とは思えぬスタイルからすれば――それこそ母親である現当主のように――男性を支配し君臨する事も簡単だろうに。
しかし現実はまるで逆。この町の時期支配者――なにせ町の税収の90%以上は新江崎関連の施設からでているのだ――とも言える少女は、助手やメイドのように少年を見守っているだけで。
「それに」
そもそも、新江崎家の現当主がこの事を知ったら唯ではすまない。
現当主――沙織お嬢様の実母――が、この町唯一の医者である柊ノゾミを憎々しく思っているのは周知の事実。時期当主として教育と期待をよせている娘が、よりにもよって憎い女医の息子と週に一回図書館で会っているなどと知ったら。
みづきは自分の役目として、現当主にこの事実を報告すべきか? と考える。
「……」
深く椅子に座り直し、コーヒーを飲みながら窓の外をぼんやりと眺める。今の憂鬱な気分にぴったりの暗い空が広がっており、時折雨も降っているようだった。
そして、お嬢様の事は報告しない……とみづきは決断する。主人の初恋の味方をする……という理由だけではなく、沙織お嬢様の性格を考えると、母親から妨害が入った場合にとんでもない暴走をする恐れがあった。
けれど、このまま放置していてもあの初恋は燃え上がるかもしれない。その時はどうすればいいのか? 考えても仕方ないと思うけれど、未来の事を思うとみづきは気が滅入る。
「……エステでも行きたいわね」
みづきは大学時代からエステに通うのが好きで、それが高じてエステティシャンの資格まで持っていた。元々はテニスの後に筋肉をほぐす為に行っていたのだが。今となっては、仕事で疲れた体を癒すほうが多い。
すでに昼からは別の司書が勤務しており――元々お嬢様の予定に合わせ、みづきも今日は休みではあった――特に用もない。閉館時間までこの準備室で読書をして過ごし、お嬢様を屋敷へと送った後でエステに行こう……と予定を立てる。
それに、窓の外の雨はますます激しさを増しており、読書日和と言えなくもなかった。みづきは気分を入れ替えるように椅子から立ち上がり、自分の本をとる為に窓際にある本棚へと歩く。
「――?」
その時、視界の端に何かがうつった。窓の外、少し出っ張った雨よけのひさしの部分に誰かが座り込んでいるような……。
目をこらして見れば間違いない。それは小柄でびしょぬれの体操服を着た、とても可愛い顔立ちの男の子。まぎれもなく朝に挨拶をしたあの少年だった。
隻手の声
◇
結構、鬱……というかコミュ障が長引いてしまい、他人に対して意見を表明するのが辛くなってしまっていました。こういう風に不特定多数に”あくまでも独り言という形態で”発信する分にはいいのだけれど。
ま、少しずつ良くなっている実感が強まっている今日この頃。この猛暑の中、女子のスカートが短くてとても嬉しい日々が続いていますが、皆さんは元気でしょうか?
言葉では言い表せないほど、深く感謝しています。ま、完結までボチボチ書いていきます。本当にありがとうございます。
ところで話は変わり、今回のタイトルにある『隻手の声』。色々と思い悩んでいた時に、この話――というか公案ですが――を知って、深く感動しました。
色々と解釈はあって、それは言葉では記せない事らしいのですが――禅の話ですので――まったくの門外漢、無宗教の私にも面白いと思えました。すっげー雑に言えば、
・両手を打ち合わせれば(つまり拍手っすね)音が鳴る。では片手で拍手したらどんな音が聞こえますか?
という問い――禅で公案――なんです。
◇◇
片手で拍手……。音なんて鳴るはずが無いのですが、どうでしょう? 周囲が出来るだけ静かな環境で、瞳を閉じ、深く心を落ち着かせて隻手の音を聞こうとしてみて下さい。
どうですか? 隻手の声は聞こえずとも、普段では聞こえなかったさまざまな物音が聞こえたのではないでしょうか?
つまり、そういう事らしいです。結果だけを求めるのではなく、その過程に全てがある。
何事もそうなのかもしれません。だから自分も、小説を書いて何になる? 書いても駄目だったらどうしよう? と迷わず取りあえずやってみよう……結果ではなく、その『過程』こそが大事なのだと、思うことにしました。
つまり長々と何がいいたかったかというと、女の子の足ってとても素敵だなぁ……ってことです。
結構、鬱……というかコミュ障が長引いてしまい、他人に対して意見を表明するのが辛くなってしまっていました。こういう風に不特定多数に”あくまでも独り言という形態で”発信する分にはいいのだけれど。
ま、少しずつ良くなっている実感が強まっている今日この頃。この猛暑の中、女子のスカートが短くてとても嬉しい日々が続いていますが、皆さんは元気でしょうか?
言葉では言い表せないほど、深く感謝しています。ま、完結までボチボチ書いていきます。本当にありがとうございます。
ところで話は変わり、今回のタイトルにある『隻手の声』。色々と思い悩んでいた時に、この話――というか公案ですが――を知って、深く感動しました。
色々と解釈はあって、それは言葉では記せない事らしいのですが――禅の話ですので――まったくの門外漢、無宗教の私にも面白いと思えました。すっげー雑に言えば、
・両手を打ち合わせれば(つまり拍手っすね)音が鳴る。では片手で拍手したらどんな音が聞こえますか?
という問い――禅で公案――なんです。
◇◇
片手で拍手……。音なんて鳴るはずが無いのですが、どうでしょう? 周囲が出来るだけ静かな環境で、瞳を閉じ、深く心を落ち着かせて隻手の音を聞こうとしてみて下さい。
どうですか? 隻手の声は聞こえずとも、普段では聞こえなかったさまざまな物音が聞こえたのではないでしょうか?
つまり、そういう事らしいです。結果だけを求めるのではなく、その過程に全てがある。
何事もそうなのかもしれません。だから自分も、小説を書いて何になる? 書いても駄目だったらどうしよう? と迷わず取りあえずやってみよう……結果ではなく、その『過程』こそが大事なのだと、思うことにしました。
つまり長々と何がいいたかったかというと、女の子の足ってとても素敵だなぁ……ってことです。
・ 幕間 【独白、桜】
・ 幕間 【独白、桜】
◇
初めて兄さんから助けて貰ったのは人形だった。
――それは『兄さん』とまだ呼んでおらず『あきらくん』と言っていた頃の話。私は幼稚園の年長組で『あきらくん』が小学校1年生。
ある日、家の近くに小さな診療所とお家が完成して、誰かが引越しをしてきた。私の住んでいた地域には、周辺に民家が少なくって――農家のおじいちゃん、おばあちゃんのお家が数軒だけだった――すごく興味しんしん。
そして当日の夜にママと一緒に、そのお家へ行った。
小さくっておしゃれな玄関では、びっくりしちゃうくらい可愛い女のお医者さんが出迎えてくれていた。真っ白でコートみたいな上着――『白衣』という単語を知らなかったのだ――は天使の衣装みたい、そしてメガネのすっごく似合う可愛いお姉さんだと感じた。
しかも驚くことに、ママはそのお姉さん先生と親友で、私は興奮でうまく喋れなくて……。そうこうしているうちに、いつのまにか玄関先へあらわれていた静かな雰囲気の子が『あきらくん』だった。
「これからお願いね、桜ちゃん。アキラと仲良くしてあげて」
「う、うん……」
可愛い先生の隣に立っている子。むすっと硬く結ばれた口元、まっくろで強い感じの瞳。背は私より少しだけ大きくって、そしてぺこりと頭を下げられる。
「こんばんは。柊アキラです。よろしくお願いします」
「こ、こんばんは」
幼稚園にいる他の男の子たちとは全然ちがうって感じを受けた。今思えば、兄さんは紳士的ってやつだったんだろうけれど、男の子にそんな態度をとられた事がなかったあの頃の私は、むしろ少し怖かった。さんざんな第一印象だ。
「えっ、アキラ君って1年生でしょ? うわぁ、うちのと全然違うわ。やっぱりノゾミの教育ってやつ?」
「やめて。ね、アキラ。桜ちゃんに子供部屋を案内してあげてちょうだい」
外見どおりの優しそうで可愛い声。そして白衣を着て細いフレームの眼鏡をかけている『のぞみ先生』とママが小さな声で何かを話し出す。ボソボソとした声……大人の会話だとわかった。
「うん、わかった母さん。――桜ちゃん、こっちに来て。あ、ここに段差があるから注意して」
「え、う、うん」
――次の日から、私の世界は変わった。ママはバーを再開、先生はお医者様の仕事で忙しい。当然のように、私とあきらくんは新しいお家で過ごすことになった、2人っきりで。
「ねえ、あきらくん。なわとびしよ!」
「本よんでるからだめ」
「じゃあ、おままごとー」
「うん、あとでね」
なんて嫌なヤツだって、当時の私は思ったものだ。私の部屋とは全然違う、おもちゃひとつ転がっていない片付いた部屋の中、いつも本を読んでいる男の子。何を誘ってもそっけない態度。おやつを食べた後も自分で片づけをして、私の分までコップを洗うイヤミな良い子。
「いいもん。一人で遊ぶ!」
「うん」
退屈だった私はパパに買ってもらったクマのぬいぐるみや、女の子の人形を使って独りで遊び続けた。けれどそんな日常が1週間ほど続いたある日、それは一変する事になる。
「――っっ! ああっ!」
「……?」
森へ出かけた少女がクマに出会い、崖から落ちそうになった所を間一髪で助けられる……というシーンで遊んでいた私。TVで見たCMのように、クマさんが腕一本で少女を引き上げる――『ファイトー!』というCMが好きな変な子だったのだ――という所で、あまりに感情移入しすぎた私はクマの人形の手を引っ張りすぎて……。
「ムーさんの手が、手がとれちゃった!!」
レモン色をしたクマのぬいぐるみの腕は、根元から見事に引きちぎられていた。
元々散々に遊び続けたモノで、お出かけする時や食事時間、寝るときだっていつも一緒にいた人形だった。その所為もあったんだろうけれど、当時の私は納得なんてできるはずもない。ショックのあまり泣き叫び、周囲にあったこまごましたおもちゃを手当たりしだいに投げ散らかした。
いつも一緒にいてくれたムーさん。お仕事で忙しいパパとママの代わりに私と遊んでくれた大切なムーさんの人形が……。
「ね、ちょっと見せてごらん」
「うううっ、……え?」
普段、無愛想でそっけない『あきらくん』。けれどその時の彼は、真剣な顔、まっすぐな瞳でじっと私を見つめていた。
「なに?」
「その人形。ちょっと見せてもらっていい?」
まるで、パパ――1週間に2日しか会えないけど――のような優しい笑顔と声だった。けれど瞳だけはキリリと真剣に輝いていて……。
「うん……」
痛々しく腕のとれた人形を私はそっと彼に差し出す。よだれやいくつものシミ、汚れが付着したムーさんの人形を、けれど『あきらくん』はやさしく抱くように受けてくれた。
そして、怖いくらい真剣な眼差しで外れた箇所を見つめる。口元は考え込むように結ばれ、太めの眉は少し眉間へと寄っていた。
――TVで見たアニメの『めいたんてい』のように。
「さくらちゃん。これなら直せるよ、たぶん」
「えっ、本当!!」
落胆から歓喜へのジェットコースター。今まであんなに気に食わないって思ってた『あきらくん』が、全然別人に思えた。
相変わらず真剣な瞳で、なんども取れた箇所を見つめている彼。その動作すべてに目を奪われて離す事ができない。
「中の綿がかなりよれてるから、うん……新しい綿を詰めて縫えば直る」
「やった!! それって今スグに出来るの?」
小さな体が震えそうな喜び。しかし、それは次の一言で無常にも打ち砕かれた。
「ううん、今は無理だよ。針と糸を勝手に使ったら母さんが怒るし、きっと悲しむ。母さんを悲しませるような事、ボクは絶対にしない」
「……え、でも」
歓喜から再びの落胆。望みを絶たれると書いて絶望と言うのであれば、これは幼稚園生の私が初めて味わったソレだろう。
再び涙があふれてくる。期待させるだけさせといて、結局『あきらくん』はヒドイって思った。しかも、そんな私を置いて彼はすたすたと部屋を出て行く。
「ううううううううっっっ」
時計はまだ夕方の4時で、先生が帰ってくるのは数時間後。もし、先生にも断られたら本当にママに頼むしかなくなる。
けれど仕事明けのママはすぐに寝ちゃう。なら、ムーさんが直るのはいつになるのか? そもそも壊しちゃった事で怒られるかもしれない。
悔しさと悲しみ、『あきらくん』に対する怒りと落胆。そんないくつもの感情があふれだし、次々と涙がこぼれる。すぐにでも大声で泣き叫びそうな、その時。
「だから、応急処置をしよう」
子供部屋の中に、静かな――でも力強い――声が流れた。
「ううっ、――っう? おーきゅーしょち?」
いつの間にか部屋へと舞い戻っていた『あきらくん』。右手にムーさん、左手には救急箱をしっかりと持ったまま、私を安心させるように笑顔を浮かべていた。
「うん、応急処置。だって、さくらちゃんが今夜寂しいと困るだろ?」
またもや胸にあふれ出す希望。言葉の意味はわからなかったけれど、それはどこか特別な響きを持って私の小さい胸を高鳴らせた。彼の落ち着き払った雰囲気がすっごく頼もしくて。
幼い私は絶望と希望、悲しみと喜びを何度も交互に味わってぐちゃぐちゃ。うまく喋ることだって出来ない。
「名札についてた案全ピンを使うよ。このままじゃ腕をなくしちゃうかもしれないし、綿だってはみ出るだろうからさ」
「う、うん」
何を言っているのか全然理解なんて出来なかったけれど、『あきらくん』の迷いがない動作だけはしっかりと見つめていた。
優しく床へ置いたムーさんの腕に小さな何かを刺し、小さくブツブツと呟きながら彼が救急箱から包帯を取り出す。一瞬の停滞もなくそれをハサミで切り取って……。
「ふわぁ」
くるくるくるっと、まるで魔法みたいだった。あっという間にムーさんは、千切れた右手と肩を包帯で固定されて、
「はい、さくらちゃん」
ポンっと私の腕には、包帯がきれいに巻かれたムーさんがいた。
言葉もない。体の奥から沸き起こる喜びが、小さな手足から背中、腰の奥、頭から髪の毛の先までしびれるくらいに広がっていた。
あきらくんは『めいたんてい』じゃなくって『おいしゃさま』なんだ!!
稲妻にうたれたような感情の中、その確信だけがグルグルと胸の中をめぐる。
「あ、ありがとうっ」
「いいよ、べつに」
再びそっけない態度を見せながら、私が投げ散らかしたおもちゃを片付け始めるあきらくん。今までだったら、その様子を横目で見ているだけだったけれど……。
「さ、さくらも手伝うね!」
「あ、うん」
私は彼のあとをついておもちゃを片付ける手伝いをした。胸の中は感動と感謝、そして言葉にできない不思議なもやもやでいっぱい。
そこには『あきらくん』への悪感情など、ひとかけらも残っていなかった。
――そうしてそれからの日々は、退屈とは無縁の楽しい時間となった。
良く言えば元気、ありていに言えばお転婆だった私は、壊れたおもちゃを沢山――しかもママが捨てようとすると泣きわめいていた――持っており、次の日から『あきらくん』に『おーきゅーしょち』をしてもらうのが日課となった。
「きょうのかんじゃさんはコレだからね!」
「……うっ」
毎日、毎日、よく兄さんは相手してくれたものだと感心するけれど、しかし『あきらくん』も結構楽しんでいたんじゃないかな? と少し思う。
当初は面倒くさそうだったけど、いろんなおもちゃの構造を調べたり、分解して組み立てたり、兄さんはそういった細かい作業が好きそうだった。
「ね、直る?」
「ん……、たぶん。ね、ここ持ってて」
「うん!」
ちょっと咳払いなんかしながら、真剣な瞳でおもちゃを調べる『あきらくん』。その横顔、器用に動く指先、うまく直せた時の嬉しそうな口元……全部、全部見ていた。
それは、今も続く恋心の始まりだったのだろう。
そうしていつのまにか『あきらくん』は『兄さん』に、『桜ちゃん』は『桜』『バカ桜』へと変わっていった。同じご飯を食べて、お風呂で泡だらけになって遊び、疲れ果て同じベッドで眠る。本当の兄妹みたいに、いつも一緒の時間を過ごした。
――けれどその呼び方、関係が一晩だけ元に戻った夜がある。忘れもしない、兄さんは小学5年生で私が4年生になり立ての4月。
その日の事を思い出す度、いつも私は泣きたくなる。もっと『何か』を兄さんに伝えるべきだったと、胸の奥が後悔でズキズキと痛む。
未だに『何』を言えば良かったのか? それはわからないけれど。
◇◇
4月、私の名前と同じ花びらが咲き誇る大好きな季節。その夜、私はママの本棚から勝手に持ってきた漫画を読んでいた。兄さんが勉強しているのを時折横目で見ながら、ベッドに寝転んで。
漫画の内容は私たちと同世代の少年少女達が突然、何もない砂漠のど真ん中へ教室ごと移動していた……という話で、めちゃくちゃ怖いのに、でもぐいぐいとストーリーに引き込まれてしまう。
普通は10時くらいに眠る私だけれど、その時はもう夢中になっていて時間が経つのを忘れていた。
「ん? おい、バカ桜! もう12時じゃんか。いいかげんに寝ろよ」
「う、うん」
そんな兄さんの声にさえびくっと震えてしまい、半ば照れ隠しのように毛布へと入り込んだ。やれやれといった感じでため息をつく兄さんを見つつ。……が、その時にふと思い出した。
明日は学校へ鍵盤ハーモニカを持っていかなければならないことを。
「に、兄さん」
「なんだよ?」
間が悪いことにその週は日直で、翌朝に家へ寄って準備する時間はなかった。いや、兄さんよりも早くこの家を出て用意すれば十分に間に合うのだけれど、そうすると一緒に登校できなくなる。
「ちょっとお家に行きたいんだけど……」
「ん、行ってくれば?」
こういうそっけなさは昔と何一つ変わってなくって腹が立つ。が、今まで読んでいた漫画の怖いシーンが脳裏に張り付いて離れない。
「一緒に……お願いっ」
「は? 何でだよ」
兄さんは眉をひそめながら面倒くさそうに言う。確かに私の家までは歩いても5分とかからない。わざわざ2人で行く必要なんてない……けれど、どうしても怖かった私は必死に頼み込んだ。いや、駄々をこねた。
「ああもうっ、バカ桜! わかったよ、この……うるさいから黙れ」
「にひひ。やったっ」
『なんだかんだ言っても兄さんはちょろい』というのが私の根底にはあった。今までどんな無理難題や困った時も、兄さんはいつも力になってくれる存在で……まあ、甘やかされてたって事なんだろうけど。
「あ、でも静かにね。ママに見つかるとめんどくさいから」
「うん」
ママはバーで『ママ』をしている時、娘の私から見ても綺麗だと思うけれど、けっこうおしゃべりで絡んでくる。兄さんに対しても、『好きな子はいる?』『うちの桜ってどう思う?』『私とお母さんってどっちがキレイ?』などなど、途切れることなく質問をする。
この時間なら間違いなくお酒を飲んでるだろうし、静かに裏口から入って部屋へ行き、鍵盤ハーモニカだけを持って逃げるのが最上だと思う。
「……兄さん、ここで待ってて」
「……うん」
あっという間にたどり着いた家の裏口から侵入し、兄さんをバーへと続く通路へ置き去りにして2階の自室へと向かった。
――どうして、一緒に部屋へ行かなかったのか。この瞬間を私は、今でも悔やむ。
手際よく目的の鍵盤ハーモニカを持ち出し、1階へと降りた。が、そこに居たはずの兄さんが見当たらなくて……。
「兄さん? どこ……」
「だから! そんなのノゾミの考え過ぎでしょ! アキラ君とアンタが血がつながってないからって、それが何なわけ!? ノゾミは立派に母親してるわよ、私なんかよりずっとちゃんとしてるわ!」
「うるさい、うるさい! アキラの我侭ひとつ聞いた事がない。こんなのが母親してるっていうの! 私、私ばっかりが……いつもあの子に救われて。参観日も、運動会も行った事がない、た、誕生日だって祝ってあげた事なんてないのよ。なのにあの子ったら……、不満ひとつ……。こんなの、こんなのが母親だって言えるの!」
――時間が凍りつくかと思った。ううん、むしろそれを望んでいたのかもしれない。通路の奥、バーの場所から聞こえてきた声は間違いなくママと先生のもので。
「兄さん……」
気づけば薄暗い通路へ、兄さんは座り込んでいた。声も立てず、泣きもせず、何の身動きもせずに……。
何も聞こえなければいい、時間が止まってしまえばいい、と願うのにバーからは相変わらず2人の声が響いてくる。
「ふざけないで! アキラ君は医者になるってあんなに頑張ってるじゃない。それはノゾミがしっかりと……」
「何もしてない! 何一つしてあげられてないわよ! こんなの……アキラのご両親に申し訳なくて……」
――そこからどうやって家まで帰り着いたのか、はっきり覚えていない。ただ覚えているのは、兄さんがまるで糸の切れた人形のようだったこと。4月だというのに、その体が恐ろしく冷たかったこと。そして、ベッドに潜り込むまで必死に声を押し殺していたこと。
「……っっっ」
同じ毛布にくるまりながら、兄さんのブルブルと震えている体を強く抱きしめていた。何も言葉が出ない。何かを言おうと思うのに、それは叫びにしかならなそうで……。
つい数時間前まで平和だった世界が突如、ドロリとした残酷な本性をあらわしたような気がして。
「桜……」
「に、兄さん……?」
どれぐらいそうやって抱き合っていたのか、ポツリと兄さんが呟いた。暗闇の中でさえ、うつろだとわかる真っ黒な瞳で私を見つめながら。
「母さんに……義母さんにさ……。さっきの事、言わないで」
「え?」
小さいささやき声と共に、私の背中に回された兄さんの手に力が入る。まるで赤子のようにギュッとしがみつきながら彼は呟く。
「だって、ボクが知った事を気づいたら……きっと母さんは、義母さんは悲しむから」
「――っっっ!!」
その時に胸を走りぬけた激情は、今も何だったのかはっきりとはわからない。怒りなのか、悲しみなのか、同情なのか、哀れみなのか。
ただ私に出来たのは、彼の震えている頭を強く、強く胸に抱きしめる事だけだった。私の鼓動で彼の凍りついた体をとかそう……とでもいう風に。
「桜?」
「泣いてよ! あきらくん! 自分自身の為に! 誰かのためじゃなくて、自分の為に泣いていいんだから! 泣いてよ。あきらくん、お願いだから!」
きちんとそう言えたかどうか覚えていない。ただポロポロと涙をこぼしながら、私はぎゅっとあきらくんの頭を、全身を抱きしめていた。
「あきらくん。あきらくんはバカだ。私より、ずっと、ずっとバカだよ。泣いてよ。自分の為に。お願いだから! あきらくん、あきらくん!」
怒り、悔しさ、悲しみと愛しさ。私ではどうやっても先生の代わりにはなれないって痛いほどわかる。でもその時の私ができる精一杯の『おーきゅーしょち』だった。
「――っ」
静かに、声を押し殺しながら『あきらくん』が泣く。熱い涙がゆっくりと私の胸を濡らしていった。暗闇の中で、『何か』を言わなければいけないって思うのに、どうしてもその『何か』が見つけられなくて。
「さくら、さくら……母さん、お母さん……」
「あきらくん。あきらくん……」
ずっと側に居ようって、その時改めて固く誓った。静かな……悲しいくらい静かな泣き声を聞きながら。
◇◇◇
ゆっくりと机から身を起こし、ジンジンと痺れた腕に苦笑しながら私はアクビを一つした。
「なんて夢」
我ながら赤面しちゃうくらい懐かしい記憶。私が住むこの看護大学女子寮……ここから見える桜の木の所為だろうか?
あの時と同じくらいピンク色の花びらが綺麗で……。
「あきらくん……だって」
兄さんも今頃、医大生としてこの桜の花びらの下で頑張っているんだろう。かくいう私もあと1年でここを卒業し、念願の看護士になるのだけど。
兄さんが東京の中学へ進学してから、すっかり離れ離れになった。けれど胸の奥から兄さんの姿が消えた事は一度もない。
あの時の誓いは――わずかも色あせることなく――いまも胸の中へドクドクと息づいている。
「んっ」
背伸びを一つしながら立ち上がる。外出にはちょっとラフすぎる格好だけれど、すぐ近くのコンビニだから問題ない。
時計をチラリと見れば、夜の7時。夜食とちょっとスイーツなんかを買って勉強しようと決める。
「……」
とんとんとスニーカーを履いて、髪を後ろに縛りながらゆっくりと玄関を出る。幾人かの友人と後輩へ軽く手を挙げて挨拶。
ハラハラと舞い落ちてくる花びらに、少し浮かれながら足を出す。風が強く、もうすぐ来る夏を予感させるように少し温かい。
「ふふっ」
元気に横をすり抜けていく子供。兄妹だろうか? きっと目的地は同じコンビニに違いない。仲良く手をつなぎながら、互いに何かを言い合いつつ走っている。まるで、幼い頃の私と兄さんのようで……。
「?」
コンビニはすぐそこ。この横断歩道を渡れば5メートルもない。やっぱり兄妹と目的地は同じみたいで、遊歩道で並んで経って待つ。なんだか少し嬉しい。
――けれど、そこで私は見る。信号が変わった直後、待ちきれずに駆け出す兄妹と、それに気付かずに右折してくるトラックを。
そして、私は…………。
・ 幕間 終







